五島列島で十字架を担いで歩いた、その翌週。アーサー・ホーランドは東京・日本橋のギャラリーにいた。壁一面に絵が掛かる小さな空間に、絵筆を持つ者、彫刻刀を握る者——表現を生業とする者たちが集まっている。この日の90分は、殉教の島の土を踏んできたばかりの男が、芸術家たちに向かって放った、まっすぐな直球だった。

日本橋のギャラリーでメッセージを語るアーサー・ホーランド
壁に絵が掛かるギャラリーの一角から、90分間ノンストップで語り続けた。

証し人とは、殉教する者——五島列島の潜伏キリシタン

話は五島列島から始まった。江戸から明治へ時代が変わっても禁教令は続き、長崎から島へ渡った潜伏キリシタンたちは、想像を絶する迫害の中に置かれた。六畳ほどの牢に約二百人が詰め込まれ、八ヶ月もの監禁。蛆が湧き、人が死んでいく。そこで四十人近くが殉教した。

誰一人として、信仰を捨てなかったんですね。ちいちゃな子供から、イエス様の五つの傷を自分も負ってパラダイスに行きたい——そういう信仰を持って。

ARTHUR HOLLANDS

彼らの手元に聖書はなかった。イコンと、語り継がれた話のイメージだけで信仰を育んだ人たちだった。「証し」という言葉はギリシャ語で「殉教」と同じ語根を持つ——だから証し人として生きるとは、命を懸けてイエスの道を歩む者のことなのだと、アーサーは言う。彼らの殉教の場所を、十字架を担いで歩いてきた。世界遺産の島で、若者が「え、十字架担いでるんですか?」と声をかけてくる。あの迫害の時代にジーザスの名前すら口にできなかった島を、今、十字架が公然と行進する。「あれはすごい霊的な表現ですよ」。

五島列島の十字架行進について語るアーサー・ホーランド
「語らずにして語る。アーサー・ホーランドと島と海のシルエットの中で、十字架が一つの絵画として何を訴えるか」

天に逃げるんじゃない。神の国がこの地に来る

殉教者たちは死んで終わったのではない——ここからメッセージは聖書全体の核心へ切り込んでいく。「死んだら天国に行ける」で止まる信仰を、アーサーは「エスケーピズム(逃避主義)」と一刀両断する。

俺たちが天に行くんじゃなくて、天が地に来てくれて一つになるっていうのが聖書のメッセージ。黙示録を読んだら、黄金のエルサレムがこの地に来る。天と地が一つになる。

ARTHUR HOLLANDS

天は神の御座、地は神の足台。俺たちが神のところへ登っていくのが宗教なら、神の方から俺たちのところへ降りて来てくれたのがゴスペルだ。神の国の王はすでにこの地上に来た。信じた瞬間、聖霊が宿り、神の国はもう始まっている。だからクリスチャンは、この地を捨てて逃げる者ではなく、この地に神の国をあらわす者なのだ。

塩は、土と混ざると塩気を失う

では、この地でどう生きるのか。アーサーは山上の垂訓の「地の塩、世の光」を開いた。塩と光は別々の話ではない。表裏一体、一つのものだと言う。塩は味を引き出し、腐敗を留め、罪の傷口にヒリッと痛みを走らせる。光は、見せたくない闇に灯りをともす。だからクリスチャンは時に嫌われる。それでいい。問題は塩気を失うことだ。

面白いことに、塩って土と混ざっちゃうと塩気がなくなっていくんです。世の中に調子を合わせると、塩気をなくすよってことなんだよね。塩気のないクリスチャンは、道端に捨てられて踏みつけられるだけ。土の一部になるってことです。

ARTHUR HOLLANDS

塩気の源は自分の努力ではなく、内に住むイエスとの恵みの関係だ。御言葉に留まり、心が清められていく人は、存在するだけでキリストの香りと熱を放つようになる。「語って伝道する言葉だけじゃダメなんです。語っている人の心のあり方が問われる」。夏目漱石は「芸術家とは、四角な世界から常識という一角を摩滅して、三角のうちに住む者」と言った。ならばクリスチャンは、四角い社会の中で三角を生きる者——世の流れに逆らって、神の国の価値観を生き様で証しする者だ。受けのいい絵ではなく、心に闇を抱えた人に光を与える絵を描け。芸術家たちへの言葉は、そのまま「表現者としてのクリスチャン」全員への言葉だった。

台風の海で、その船だけが出た

五島行進は台風のただ中だった。連日の雨。周囲の島へ渡る船が全便欠航する朝、スタッフたちは心を騒がせていた。だがアーサーは平安だった。「その時はその時で、神がインスピレーションをくれる」。結果、彼らが向かう島への船だけが、入り江の地形のおかげで出航した。

歩き終えた港の売店で、一人の女性が待っていた。アーサーの書いたものをずっと読んできたという。「アーサーさんの言う愛と赦し、素晴らしいと思います。私もそういう人間になりたいです。クリスチャンじゃないけど」。——その場で彼女はイエスを信じ、洗礼を受けた。

みんなはもう無理だと思ってた。けど神は奇跡を起こして、俺たちは行けるようになって、終わってから彼女が待ってたわけですね。彼女に会うために神は導いたんだよね。だから皆さん——待ってる人がいるんですよ。

ARTHUR HOLLANDS

ひとりを救うこと、これより大きな国益はない

この日引用されたのは、「福祉の父」と呼ばれた留岡幸助の言葉。「ひとりを救うこと、これより大きな国益はない。一人を滅ぼすこと、これより大きな損失はない」。そして「我が国の教育は情味が足らぬ」。知識ではなく知恵——恵みを知ること、憐れみ深い心を知ることが本物の教育だと。システムの枠に収まらない子が、絵を描かせたら天才的な絵を描く。神は無学な者を用いて知ある者を戒める。人間の価値は、学歴でも肩書でも生産性でもなく、天地を造った神が高価で尊いと言って命を懸けたことにある。

九十九匹を残して、迷い出た一匹を探しに行く

集会で紹介された羊飼いの絵画(ジュリアン・デュプレ)
スクリーンに映されたジュリアン・デュプレの羊飼いの絵。ここから、この日の中心聖句へ入っていく。

この日の聖書箇所はマタイの福音書18章。百匹の羊を持つ人が、迷い出た一匹のために九十九匹を山に残して探しに出かける——イエスのたとえだ。ルカ15章では、見つけた羊飼いは大喜びでその羊を担ぎ上げ、友を呼び集めて「一緒に喜んでください」と言う。

ジーザスはすごいんだよね。九十九で満足いかないんだよね。もう一匹がここにいないことを悲しまないのか、というのがイエスだよね。そして情熱を持って探しに出かける。

ARTHUR HOLLANDS

その源流にあるのが詩篇23篇だ。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」。会場のスクリーンに映し出された御言葉を、アーサーはこう読み解く——あなたが俺の羊飼いなら、何もなくても全てがある、とダビデは言っているのだ。物を持てば持つほど、もっと持たなければと不安になる。何もない方が、全てがあることに素直に気づける。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。俺たちのために命を捨てたのがイエスだ。死の陰の谷まで一緒にくぐり抜けてくれて、死んでもよみがえる命を約束してくれる方。「自分には価値がない」という嘘は、一匹のために山を降りるこの羊飼いの前で終わる。

スクリーンに詩篇23篇が映し出されたギャラリーの会場
詩篇23篇がスクリーンに映る。ギャラリーの壁の絵に囲まれて、御言葉が朗読された。

首の骨を折った俺と、タイタニックの最後の生存者

「私のくびきは負いやすく、荷は軽い」。この御言葉を、アーサーは自分の体で知っている。若き日、レスリングの世界選手権メンバーに選ばれた直後、試合で首の骨を折った。75キロあった体は50キロ台まで落ち、首を固定する装具(くびき)をはめたまま生きた。1000人を超える集会で「私のくびきは負いやすい」というメッセージを聞いたとき、くびきをはめている人間は会場で自分ひとりだった。

首の負傷から療養していた若き日のアーサー・ホーランドの写真
この日スクリーンに映された、半世紀前のアーサー。首の骨折から療養していた時代の一枚。

療養中、寝ているのが嫌で「神様、今から散歩に行きます。あなたを求めている人に出会わせてください」と祈って外へ出た。フラフラ歩く彼に、90歳ほどの老人が向こうから声をかけてきた。「その首はどうしたんだ」。話すうちに老人が明かした——自分はタイタニック号の最後の生存者だ。船が沈む夜、部屋でひざまずいて「神様、助けてください」と必死に祈り、本当に助かった。だがそれ以来、その神が誰なのか、分からないまま生きてきた。

それはイエスですよって言ったわけ。あなたはイエスを信じますか?——信じますって。90歳のおじいちゃんがイエス様を信じたんじゃん。苦しんでよかった。俺は首の骨を折ってなきゃ、そいつと出会えなかった。

ARTHUR HOLLANDS

求めている人がいる。与えようとする人がいる。雛が内側から殻をつつくのと同時に、親鳥が外からつつく——啐啄同時。その出会いを起こすのは人間の計画ではなく、聖霊の働きだ。「収穫は多いが、働き手が少ない」とイエスは言った。つまり、待っている人は今もいる。

もっと早く、みんなと手をつないでいたら

メッセージの最後に、アーサーは一枚の写真の話をした。アメリカ・カンザス州の見渡す限りの麦畑。その真ん中の家から、4、5歳の子供が遊びに出て、背丈より高い麦の中で出口を見失った。両親は必死に探し、夜になり、町中の人が集まって手をつなぎ、ローラー式に麦畑を捜索した。ようやく見つけたとき、子供は冷たい夜気の中で息絶えていた。打ちひしがれた父親の言葉が、そのまま見出しになっていた——

Oh my God. もっと早く、みんなと一緒に手をつないでいたら。

KANSAS — ある父親の言葉

伝道は一人でやるものではない。「協力」という字は、十字架に力が三つ。十字架の下で小さな力が組み合わさるとき、大きな力になる。教団や教派の壁をぶち破って、キリストによって一つになれるか。「五人いたら百人を制し、百人いたら万人を制する。俺はその言葉を信じます」。二匹の魚と五つのパンは人間の限界。しかしイエスの手に委ねたら、群衆が満たされて十二の籠が余る。日本のリバイバルをもたらすのは人間の力ではなく、聖霊の力だ。

メッセージ終盤、身振りを交えて語るアーサー・ホーランド
「俺はもう75で、あといつ終わるかわからない。今日これを語って、この後死んでも、俺は自分の遺言のメッセージを語ったと思うんです」

75歳の伝道者は、この日のメッセージを「遺言」と呼んだ。そして最後まで、彼の言葉はきれいごとではなかった。「俺はキリスト教をやってません。キリストに惚れてるんです」。塩気を失わずに生きるとは、結局そういうことなのだ——この方に惚れ込んで、この方に留まり、実を結ぶ枝として今日を歩くこと。迷い出た一匹を探しに行く羊飼いの情熱が、あなたの中で燃え始めるまで。