人の目が気になる。世の中の評価に一喜一憂して、他人の言葉ひとつで一日が左右される——誰もが知っているこの不自由の正体を、アーサー・ホーランドは今週のStay Fast Churchで、真正面から斬り込んだ。開いたのは詩篇115篇。「私たちにではなく、主よ」と二度繰り返される、あの祈りだ。イエスが十字架にかかる前夜、最後の晩餐の席で歌ったとされる詩篇から、評価から自由になる聖書の答えが立ち上がってくる。

詩篇115篇を語るアーサー・ホーランド
92分ノンストップ。賛美から講解、招きの祈りまで、詩篇115篇を一節ずつ味わい尽くしていく。

「驚くばかりの恵み」から、すべてが始まる

メッセージは賛美から始まった。日本語と英語で歌い継がれる「アメイジング・グレイス」。こんなどうしようもない罪深い私を救いへと導き、失われていた私を神が見つけてくださった——その言葉を噛みしめながら、アーサーは釘を刺す。自分の力で神に向かっていこうとするなら、それは自分の気張りでしかない。神と人とは「結び直される」必要がある。だが大切なのは、何によって結び直されるのかだ。

アメイジング・グレイスの賛美
「驚くばかりの恵みなりき」——迷い出た一匹を探しに出かける方の恵みが、この92分の主題になる。

結び直す絆は、私たちの行いや努力や修行じゃなくて、一方的な神の憐れみ、恵みなんですよね。

ARTHUR HOLLANDS

私たちは信仰によって、神の恵みによって救われた。それは自分自身から出たことではなく、神からの贈り物であり、行いによって得るものではない(エペソ2:8-9)。イエスは良い羊飼い。百匹のうち一匹が迷ったら、九十九匹を緑の牧場に残して、その一匹を探しに出かける方だ。私たちが神に向かっていくのではない。神の方から、私たちの方に来てくださる。

人の目が気になるのは、神を見失っているから

そしてアーサーは、この日の核心に触れる。神は実にそのひとり子を与えるほどに、あなたと私を愛された。「私の目にはあなたは高価で尊い」——聖書はその視点から自分を見ることができるようにと語りかけている。ところが、その神を見失うとどうなるか。

神を見失っていくと、結局人の視点が気になるわけですね。人の目が気になる。世の中の自分に対する意見が気になる。そしてそれによって左右される。それは自分というものをしっかり持っていない証ですよね。

ARTHUR HOLLANDS

処方箋は、評価を気にしない訓練でも、メンタルの強化でもない。神に出会うことだ。「神に出会うと、自分のアイデンティティ、存在価値というものを神は与えてくださいます」。努力するから救われるのではなく、神の愛と恵みによってすでに救われている——その事実が土台になったとき、人は初めて、人の目という重力から自由になる。

十字架の前夜に歌われた詩篇

今日の詩篇115篇には、知る人ぞ知る背景がある。113篇から118篇までの六篇は「エジプシャン・ハレル」と呼ばれ、四百三十年の奴隷生活から救い出された出エジプトを記念して、過越の祭りの最中に歌われてきた。そしてマタイの福音書26章30節。最後の晩餐を終えたイエスと弟子たちは「賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った」——その賛美こそ、この詩篇だとされている。

ゲツセマネの園で祈るイエス
晩餐の後、イエスはこの詩篇を歌いながらオリーブ山へ向かい、血の汗を流して祈った。「私の思いじゃなくて、あなたの御思いがなされますように」。

翌日には体が裂かれ、血が流される。ユダは三十枚の銀貨で売る計画を進めている。その夜、イエスは「私たちにではなく、主よ、栄光をただあなたの御名にのみ帰してください」と歌ってから、ゲツセマネで「この杯を取り去ってください。しかし、私の思いじゃなくて、あなたの御思いがなされますように」と祈った。詩篇115篇1節を、そのまま生きた方がいる——このバックグラウンドを知ると、今日の御言葉の重みが変わってくる。

「私たちにではなく、主よ」——二度、繰り返される

詩篇115篇1節を読み解くアーサー・ホーランド
「俺らじゃなくて」。一節の繰り返しを、アーサーはそう訳してみせた。

一節から三節。「私たちにではなく」が二回繰り返されていることに、アーサーは目を留める。俺たちのことではないんだ。私のことでもない。私たちのことでもない。主よ、あなたのことなのだ——クリスチャンライフとは、神の栄光が現れることであり、その栄光を心に受けて輝き照らす働きが私たちの働きだと言う。バプテスマのヨハネはヨルダン川でイエスを見て「この方が栄え、私は衰える」と言った。自分の名声や地位や名誉ではない。

アーサー・ホーランド・ショーはアーサー・ホーランドのためじゃない。神の栄光を現す番組。キリストは栄え、自分は衰える。ただただキリストの栄光の余韻が残ればいいということですよね。

ARTHUR HOLLANDS

食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい(1コリント10:31)。この方がいなければ私たちは存在しない。母の胎内で細胞一つずつ編み上げてくださった方こそ、栄光を受けるべき方なのだ。

「彼らの神はどこにいるのか」と、世は嘲る

二節。「なぜ国々は言うのか。彼らの神は一体どこにいるのか」。クリスチャン人口一パーセント弱のこの国で、信じる者なら誰もが浴びたことのある嘲りだ。祈っているけど何も起こっていないじゃないか。口だけだよ、と。弾圧の時代の潜伏キリシタンたちは、その何百倍の圧力の中で信仰を守り抜いた。先日の五島列島の十字架行進では、その殉教の地を歩き、船着き場の売店の女性が「私もイエス・キリストを信じたいです」と祈ってその場で洗礼を受けた。

三節が答えだ。「私たちの神は天におられ、その望むところをことごとく行われる」。人間がどう反対しようと、どう妨げようと、神の御心はなされる。神の栄光は全地に満ちる。どんな妨げの力も、それを防ぐことはできない——治めておられる神。それが第一のポイントだった。

人は、拝むものの姿に似ていく

偶像について語るアーサー・ホーランド
「人間が作った神々じゃない、人間を創った神なんだ」。四節から八節、偶像の急所を突く。

四節から八節は偶像の描写だ。彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、鼻があっても嗅げない。手があってもさわれず、足があっても歩けない——「なんかラップ調だよね」と笑わせながら、アーサーは最後の一行で空気を変える。「これを作る者も、これに信頼する者も、みなこれと同じである」。

そのような偶像を拝んだら、あなたも命のない偶像と同じようになるよ。その姿に似てくるよ。俺たちは拝むものの姿に似てくる。

ARTHUR HOLLANDS

人は、心を開くものの姿に似ていく。だとすれば、人の評価を拝めば評価の奴隷に、金を拝めば金の奴隷になっていく。あそこに行かないと安心できないという生き方は、見えない形の奴隷だとアーサーは言う。真の神は逆だ。偶像はこちらから向かっていかなければならないが、この方は向こうから来てくださる。命のない像ではなく、昨日も今日も永久に変わらない生ける神。「今いる場所が神のいる場所なんです」——生きておられる神。それが第二のポイントだ。

助け、そして盾——恵みはあなたを追いかけてくる

九節から十五節では「主に信頼せよ。この方こそ彼らの助け、また盾である」が、イスラエルよ、アロンの家よ、主を恐れる者たちよ、と三度たたみかけられる。全員への呼びかけだ。この方以外に助けはなく、この方以外に守りはない。そして主は、信頼する者を祝福してくださる——小さな者も、大きな者も。

ここでアーサーが紹介したのが、ニューヨークのリハビリテーション研究所に残された、ある患者の詩だ。大きなことを成し遂げる力を求めたのに、謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。偉大なことができるようにと健康を求めたのに、良いことをするようにと病気を賜った。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった——

求めたものは何一つ与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。私は最も祝福されたのだ。

NY リハビリテーション研究所の患者の詩
詩篇23篇を語るアーサー・ホーランド
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがない」。詩篇23篇の朗読が、メッセージの頂点へ向かっていく。

そして詩篇23篇の朗読へ。主は私の羊飼い。私は乏しいことがない。たとえ死の陰の谷を歩むことがあっても、私は災いを恐れない。まことに、命の日のかぎり、慈しみと恵みとが私を追ってくる——アーサーはこの一行を掴んで離さない。

恵みがあなたを追っかけてくる。あなたが追っかけなくても、恵みがあなたを追っかけている。それに気づけばいい。恵みという漢字は十字架を思わせる。十字架を思う心と言ってもいい。

ARTHUR HOLLANDS

与える神。それが第三のポイント。ちなみにこの日、75歳の伝道者は「僕には5人の子供がいて、13人目の孫がいよいよ生まれようとしている。ここ1週間の中で」と、産めよ増えよ地に満ちよの祝福を自分の家族で証しした。

天は主の天。しかし、地はあなたに与えられた

十六節。「天は主の天である。しかし、地は人の子らに与えられた」。死んだら天国に行くのではない。天の領域である神と、地の領域であるあなたが一つになり、この地上を神の国に変えていくのが神のプランだ。アダムとエバにエデンの管理が任されたように、神は私たちに、神の栄光を現す働きを与えている。外に出れば、天は神の宮の天井、大海原や草原は教会の床、吹く風は神の愛のスピリット——この自然界まるごとが礼拝堂、「アースチャペル」だとアーサーは言う。

十七節、十八節で詩篇は結ばれる。死人は主をほめたたえることがない。しかし、私たちは今よりとこしえに主をほめたたえよう。ハレルヤ——あそこに行かないと礼拝できないのではない。今ここにいる場所で、あなたの息を通して、神を賛美できる。

招きの祈りへ向かうアーサー・ホーランド
「今日が救いの日、今が恵みの時、今が真の礼拝を捧げる時です」。92分の講解は、招きの祈りで結ばれた。

金銀は私にはありません。私にあるものをあげよう。ナザレのイエス、栄光の主。この栄光の主によって癒されよ。

ARTHUR HOLLANDS

人の目から自由になる道は、鈍感になることではなかった。「私たちにではなく、主よ」と歌いながら十字架へ向かった方に出会い、その方の栄光のために生きる者へと軸足を移すこと。評価の重力圏から、恵みの重力圏へ。あなたが追いかけなくても、恵みはもう、あなたを追いかけている。