五島列島・福江島。百年を超える祈りと信仰の歩みを持つ五島教会で、アーサー・ホーランドは「私たちは何につながり、どんな実を結んでいるのか」と問いかけた。創世記の「光あれ」から始まり、人間の尊厳、罪による断絶、十字架と復活、そしてこの地に到来する神の国へ——一時間を超えるメッセージは、混沌を完成形にしない創造主の希望をまっすぐに語っていく。

五島教会でメッセージを語るアーサー・ホーランド
五島教会で、創造主につながる人生と「新しい創造」について語るアーサー・ホーランド。

どの木につながり、どのような実を結ぶのか

メッセージは、「木はその実によって分かる」という聖書のことばから始まる。人が何を実らせるかは、何につながって生きているかによって変わる。世の価値観や自分の欲望だけにつながれば、自己中心や妬み、争いが生まれる。しかし、ぶどうの木であるキリストにつながるなら、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の実が結ばれていく。

僕たちがどのような実を結ぶかは、どのような木につながっているかによります。

ARTHUR HOLLANDS

信仰とは、努力して神のところまで登り、認めてもらうことではない。神の方から人となって私たちのもとへ来てくださった——その恵みの関係に生きることだ。キリストにつながる時、人は神が最初にデザインされた「人間らしさ」を回復し、受け取った愛を周りへ流す者へ変えられていく。

混沌の上に響いた「光あれ」

創世記の初め、地は形がなく、荒れ果て、秩序のない混沌に覆われていた。しかし、その大水の上を神の霊が動いていた。神が「光あれ」と語られると光が生まれ、海と陸が分けられ、草木が芽生え、星々が置かれた。混沌は、神の働きが届かない場所ではなかった。秩序ある世界を形づくる神のわざは、何も見通せない混沌のただ中で進んだ。

闇の中に光が差し地が照らされる創造のイメージ
「初めに神は天と地を創造された」——大水の上に神の霊が動き、「光あれ」と語られた。

人もまた偶然に存在しているのではない。土から形づくられ、神のかたちに造られ、いのちの息を吹き込まれた存在だ。世間の評価から自分を見ると、価値は上がったり下がったりする。けれど造り主は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と語る。ここに、人間のアイデンティティの原点がある。

人生のすべての時を、贈り物として受け取る

伝道者の書は、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある」と人生の季節を見つめる。私たちは神のなさることを初めから終わりまで見極めることはできない。それでも、神のなさることは時にかなって美しい。食べ、飲み、一日の労苦の中に幸せを見つけることも、神から与えられた贈り物だと語られる。

先が見えないからといって、今が無意味なわけではない。泣く時にも、失う時にも、神の息吹は途絶えていない。今日与えられている小さな恵みを見つけることは、まだ全体を見渡せない私たちが、創造主を信頼して受け取る小さな応答になる。

穴だらけの缶が、光によって景色に変わる

この日の中心的なイメージとして紹介されたのは、無数の穴が開いた空き缶を並べたアートだった。そのまま見れば、傷つき、秩序を失ったものにしか見えない。けれど後ろから光を当てると、缶の影が壁に朝焼けの街を映し出し、穴を通る光が窓の明かりのように輝く。景色は一瞬で変わる。

無数の穴を開けた空き缶で作られた街のアート
一見すると、傷ついた空き缶が不規則に並ぶ作品。しかし、その穴には光が通る。
空き缶の影が壁に街を映し穴を通る光が窓明かりになるアート
光を当てると、缶の影が街を描き、穴を通る光が窓の明かりのように輝く。

自分の人生はぐちゃぐちゃだと思うんですよね。でも、その人生には息吹と光が与えられます。

ARTHUR HOLLANDS

キリストにあって新しくされるとは、過去の傷がなかったことになるのではない。その傷さえも、神の光が通る場所になり得るということだ。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」。古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなる。神の光が差し込むと、同じ人生が別の景色として見え始める。

罪とは造り主から離れること——十字架が断絶に橋を架ける

聖書が語る罪は、犯罪や目に見える悪だけではない。自分を造り、愛してくださる神から離れ、自分自身が善悪の基準になって生きることだ。アダムとエバは神のことばよりも、神のことばを曲げる声を選んだ。その結果、自分を恥じ、葉で身を隠し、神の呼び声から逃げるようになった。私たちも弱さを隠し、世間の目に合わせて自分を覆おうとする。

けれど神は、隠れた人に「あなたはどこにいるのか」と呼びかける。責め立てるためではなく、断ち切れた関係をもう一度結ぶためだ。イエス・キリストは私たちのもとへ来られ、十字架で罪と死を引き受けた。十字架の縦の木は神と人との関係を、横の木は神の愛を受けた人が、その愛を周りへ分かち合う関係を表す。

ゴルゴタの丘に立つ三本の十字架のイメージ
キリストの十字架は、罪によって生じた神と人との断絶に橋を架ける。

だから俺が十字架を担ぐのは、「あなたは愛されているよ」と伝えるためです。

ARTHUR HOLLANDS

復活によって始まった、新しい創造と神の国

十字架は終わりではない。キリストは死からよみがえり、罪と死の支配を破られた。キリストにある者は、もはや罪に定められない。いのちの御霊によって罪と死の原理から解放され、新しく造られた者として歩み始めるからだ。

石が取りのけられ朝の光が差す空の墓のイメージ
空の墓が告げるのは、罪と死が最後の言葉ではないという復活の希望。

新しくされることは、自分一人の心が安らぐだけではない。神の愛に生かされた人が、この地に愛、赦し、癒やし、希望を運び、神の国を映し出していくことだ。神の国はすでに始まっているが、まだ完成していない。その間を生きる私たちは葛藤を抱えながらも、御言葉と御霊につながり、今日置かれた場所で良い実を結んでいく。

福江島に神の国が来るんだと。九州に神の国が来るんだと。日本に神の国が来る。

ARTHUR HOLLANDS

心の扉を開く——今日が救いの日、今が恵みの時

神は人を力ずくで従わせない。イエスは心の扉をたたきながら、内側から扉が開かれるのを待っておられる。人生が混沌の中にあっても、そのまま「イエス様、どうぞお入りください」と招くことができる。見通せない心にキリストを迎える時、創造の初めに響いた神の「光あれ」が、私たちの内にも響き始める。

五島教会で片手を差し出し心の扉を開く祈りへ招くアーサー・ホーランド
「今日が救いの日、今が恵みの時です」——心の扉を開く祈りへと招いた。

メッセージの結びでは、この五島教会が福江島で、難破船に希望の光を届ける灯台のような教会となるよう祈られた。受け継がれてきた信仰の種は、今も新しい実を結び続けている。混沌に見える時も、神の創造は終わっていない。今日という贈り物の中で、キリストにつながり、新しい一歩を歩み始めることができる。