人より先に立ちたい。認められたい。自分の働きを分かってほしい。そう願うことは、決して珍しくない。家庭でも、職場でも、教会でも、気づけば私たちは「誰が一番評価されるか」という見えない競争の中に立っている。
けれどもジーザスは、その競争に勝つ方法を教えなかった。先頭に立つことではなく、最後尾へ回ること。仕えられることではなく、仕えること。アーサー・ホーランド先生がこの日語ったのは、王が自ら「殿(しんがり)」となる、神の国のまったく逆さまな偉さだった。

「誰が一番偉いか」という、私たちの会話
マルコの福音書9章。イエスと弟子たちはカペナウムへ着く。家に入ると、イエスは弟子たちに尋ねた。「道で何を論じ合っていたのですか」。弟子たちは黙ってしまう。道々、誰が一番偉いかを論じ合っていたからだ。
道々、誰が一番偉いかを論じ合ってたからだ。ARTHUR HOLLANDS
直前まで弟子たちは、栄光に輝くイエスの姿を目撃し、病と悪霊に苦しむ子どもの癒やしにも立ち会っていた。それでも彼らの関心は、自分たちの中で誰が上かというところへ戻ってしまう。神の大きな御業を見た直後でさえ、心は自分の序列を数え始める。そこに、この話が私たち自身の話として響く理由がある。
「成したまえ、汝が旨」から始まる
この日の冒頭で歌われたのは、「成したまえ 汝が旨」。陶器師の手にある土のように、自分を主の御手に委ねる賛美だった。自分の思いどおりに高くなることではなく、主の御旨のままに形づくられることを願う歌だ。

「誰が一番偉いか」と競う心は、自分で自分を形づくろうとする。けれども土は、自分で器の形を決めない。陶器師の手に委ねられて、用いられる器へと整えられる。仕える生き方も同じだ。自分を小さく見せる演技ではなく、「あなたの御旨を私の中に形づくってください」と差し出すところから始まる。
先に立ちたいなら、最後尾へ
弟子たちを責め立てる代わりに、イエスは座り、十二人を呼んで語られた。
誰でも人の先に立ちたいと思うなら、皆のしんがりとなり、皆に仕える者となりなさい。MARK 9:35

人の国では、先に立つ人ほど仕えられる。けれども神の国では、先に立ちたい人ほど後ろへ回り、皆に仕える。アーサー先生は、この逆転を率直に言い表した。
一番になって仕えられるものじゃなくて、後になって仕える者になれって言うんだよね。ARTHUR HOLLANDS
これは、能力を隠すことでも、責任から逃げることでもない。力を自分の地位のためではなく、誰かを生かすために用いることだ。前に立つ役割を与えられても、心の立ち位置は最後尾に置く。目立つ人だけではなく、列の後ろで遅れている人、声を上げられない人を見失わないためである。
「殿」は、最後尾で壁になる
ここでアーサー先生は、「しんがり」という言葉を漢字で示した。「殿」。ふつうは「との」と読み、守られる高い身分の人を思い浮かべる。ところが「しんがり」と読めば、意味は反対方向へ開かれる。

戦いで味方が退く時、最後尾に残って追手を引き受ける。仲間が安全な場所へ進めるように、自分が矢面に立つ。それが殿の役目だ。最も危険な場所に立ち、全体を守る。だから殿は、消極的な「後の人」ではない。愛と勇気をもって後ろに立つ人である。
王はしんがりとなってくれたってんだよね。イエスは俺らのしんがりとなってくれた。ARTHUR HOLLANDS
守られるはずの王が、守るために最後尾へ立つ。そこにジーザスの王権が現れる。神の国の王は、距離を置いて命令するだけの方ではない。危険と痛みのただ中へ降り、御自身を盾として差し出される方だ。
世界人類のしんがりとなった王
イエスは、これから御自身が十字架へ向かうことを弟子たちに語っていた。罪のない方が、私たちの罪の負債を御自身の身代わりとして背負う。仕えられるべき方が、仕える者の姿を取り、死にまで従われる。

この方こそ世界人類のしんがりですよ。世界人類の贖い主ですよ。救い主ですよ。ARTHUR HOLLANDS
十字架は、王が最後尾に立った場所だった。罪と死が追ってくる中で、イエスは私たちと滅びとの間に立ち、御自身の命によって道を開いてくださった。そして三日目によみがえられた。だから「仕えなさい」という言葉には説得力がある。イエスは、自分がしなかったことを弟子に命じたのではない。御自身が歩まれる道へ、「自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい」と招かれた。
この招きは、自分を粗末に扱うことではない。傷つけられても黙り続けることでも、力のある人に媚びることでもない。イエスに愛され、守られている者として、いただいた力を弱い立場の人を守るために差し出すことである。
イエスは、子どもを真ん中に置いた
一番を争っていた大人たちの真ん中へ、イエスは一人の子どもを連れて来た。そしてその子を腕に抱き寄せる。偉さについての講義の中心に置かれたのは、地位のある人でも、影響力のある人でもなかった。

だから子供を大切にしなよ。この子供の一人を受け入れることは、私を受け入れることなんだよ。ARTHUR HOLLANDS
アーサー先生は、子ども、年老いた人、やもめ、弱さを抱える人、誰からも目を向けられない人へ話を広げていく。見返りを返せる人に仕えることだけが奉仕ではない。社会の後ろへ追いやられやすい人を見つけ、その声を聴き、その人のために立つ。そこに殿の生き方が見える。
家庭でも、職場でも、教会でも、私たちの周りには「真ん中へ迎えられること」を必要としている人がいる。助言より先に話を聴く。評価されなくても小さな手助けをする。失敗した人を切り捨てず、立ち直るための余白を守る。そうした一つ一つが、最後尾に立つ選択になる。
仕える力は、聖霊から受け取る
殿になる生き方は、気合いだけでは続かない。認められたい心も、損をしたくない恐れも、私たちの内に繰り返し起こる。だからアーサー先生は、祈りと御言葉、聖霊の力へと私たちを向ける。しんがりとなったイエス御自身が私たちの内に生き、そのまなざしと手足を通して人を愛してくださるように願うのだ。

しんがりとして仕える者の力、どうぞ私を満たしてください。ARTHUR HOLLANDS
今日の問いに戻ろう。私は、誰より先に認められることではなく、誰のために後ろへ回れるだろう。誰の声を聴き、誰を守り、誰に仕えるだろう。世界人類の殿となった王は、すでに私たちの後ろに立ち、倒れそうな歩みを支えてくださっている。その方に守られながら、今日一人のために、見られなくてもできる小さな奉仕を選びたい。