祈ろうとしても、何をどう話せばよいのかわからない。頭の中には仕事、家族、健康、将来への不安が次々と浮かび、静まろうとするほど心が騒いでしまう。そんな時、「もっと立派に祈らなければ」と自分を責めてはいないだろうか。

アーサー・ホーランド先生がこの日語ったのは、祈りの技術ではない。まず五分、日常の流れを止め、神の前に「間」をつくること。御言葉に耳を傾け、言葉にならない思いまで知っておられる方に、そのまま心を差し出すことだった。

朝焼けの麦畑を背景に、祈りの時間について語るアーサー・ホーランド
うまく祈ることより、まず神の前に立ち止まることから始めよう。

祈れない日は、まず五分から

アーサー先生が信仰を持ったばかりの頃、導き手から教えられたのは「朝、五分だけジーザスとのデートの時間をつくる」という、とても具体的な習慣だった。三分間、聖書の言葉をゆっくり味わい、二分間、自分の心にあることを神に話す。長さを競うのではなく、毎日関係を育てるための五分である。

朝5分、ジーザスとのデートの時間をつくる。ARTHUR HOLLANDS · 00:04:07

祈りは、流暢な言葉を並べる発表ではない。沈黙しか出てこない日も、ため息しか出ない日もある。それでも神は、私たちが立つのも座るのも知り、遠くから思いを見抜いておられる。だから五分の入り口に必要なのは、上手な言葉ではなく、「ここにいます」と神の前に身を置くことだ。

開かれた聖書と祈る手に『しずけき祈りの ときはいとたのし。』の歌詞が重なる画面
賛美「しずけき祈りの」が、神のもとへ願いを携える静かな時間へ招く。

心をなくさないための「間」

「忙しい」という字は、心を亡くすと書く。予定や通知に押され続けると、私たちは神の声だけでなく、自分の本当の痛みや願いまで聞こえなくなる。そこで必要になるのが「間」だ。武道や日本家屋にも息づく間は、空白ではない。次の動きが生まれるために、あえて余白を守ることである。

人生には「間」が必要です。ARTHUR HOLLANDS · 00:04:19

詩篇には「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とある。静まることは、問題が消えたふりをすることではない。問題よりも大きな方がここにおられることを思い出し、自分が世界を支え続ける手を一度ゆるめることだ。祈りの五分は、失いかけた心を神の前で取り戻す五分になる。

思い煩いを、感謝とともに手渡す

ピリピ人への手紙4章6〜7節は、「心配するな」と感情を押し殺すよう命じてはいない。思い煩いがある、その時こそ、感謝を携えて祈りと願いを神に知っていただきなさい、と道を示している。祈りとは、不安を抱えたままでも神のもとへ行ける道なのだ。

願いがすぐ思いどおりになるとは書かれていない。約束されているのは、人の理解を超えた神の平安が、キリスト・イエスにあって心と思いを「守る」こと。状況に囲まれていても、心の中心が不安だけに占領されないよう、神の平安が見張ってくださる。

雲間から光が差す空を背景に、神の平安について穏やかに語るアーサー・ホーランド
言葉にならない祈りまで知る神が、騒ぐ心に理解を超えた平安を与えてくださる。

イエスは、祈りの中で道を選んだ

ルカの福音書は、イエスの働きの節目ごとに祈りの姿を描く。ヨルダン川で洗礼を受けて祈っておられた時、天が開かれ、聖霊が鳩のように下った。人々が押し寄せる時にも、イエスは寂しいところへ退いて祈られた。十二弟子を選ぶ前には、山で夜を明かして祈られた。

ヨルダン川で洗礼を受けたイエスの上に鳩が舞う聖書情景
祈っておられたイエスの上に天が開き、聖霊が下った。

祈りは、忙しさが終わった人の余暇ではなかった。忙しく、求められ、決断を迫られる時にこそ、イエスは父なる神の前へ退かれた。群衆は同じ場所にとどまるよう願ったが、祈りを終えたイエスは、ほかの町にも神の国の福音を伝えるという使命を選んだ。静まりは逃避ではなく、次に歩む道を受け取る場所だった。

一人、寂しいところへ出かけて祈られた。ARTHUR HOLLANDS · 00:54:43

夜明け前の山で、弟子たちの前に座って祈るイエスを描いた聖書情景
イエスは祈りを説明するだけでなく、その姿を弟子たちに見せて育てられた。

荒野で支えたのは、御言葉だった

洗礼の後、聖霊に導かれて荒野へ向かったイエスは、四十日間、悪魔の試みを受けられた。「石をパンに変えよ」という誘惑に対して、イエスが握ったのは「人はパンだけで生きるのではない」という御言葉だった。空腹を否定したのではない。肉体の糧だけでは、人の魂は本当には生きられないと示されたのである。

日々の御言葉の糧を与えてください。ARTHUR HOLLANDS · 00:35:58

祈りと御言葉は離れていない。御言葉を通して神の声を聞き、祈りを通して応答する。その交わりの中で、誘惑の声と羊飼いの声を聞き分ける心が育つ。試みの時に突然強くなるのではなく、日々の五分で心に蓄えた御言葉が、荒野で足元を支える。

荒野の石のそばに座るイエスと、遠くに立つ誘惑者を描いた聖書情景
空腹と試みのただ中で、イエスは父なる神の御言葉に立ち続けた。

御言葉は、急いで飲み込まずに味わう

詩篇1篇は、主の教えを喜び、昼も夜も口ずさむ人を、水路のそばに植えられた木にたとえる。アーサー先生は、ここで「口ずさむ」に通じるヘブル語のイメージを紹介した。獲物を前にした獣が低く唸るように、また牛が何度も反芻するように、御言葉を繰り返し味わう姿である。

聖書を三分読む時、量をこなす必要はない。一節をゆっくり読み、気になる言葉で止まり、自分に何を語りかけているかを聴く。そして残りの二分で、「この言葉を今日、私の中に生きさせてください」と祈る。御言葉が心にとどまり、私たちがキリストにつながる時、ぶどうの木につながる枝のように、愛、喜び、平安という実が日常に現れ始める。

祈りは、天と地が一つになる場所

祈りの中心は、願いを通すことだけではない。天の領域におられる父なる神と、限りある地上を生きる私たちが、キリストにあって一つに結ばれることだ。「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように」という主の祈りは、神の御心が私たちの生活に宿ることを願う祈りでもある。

神と一つになるのが祈りなんです。ARTHUR HOLLANDS · 00:58:20

だから祈りは、形でも儀式でもない。神の臨在にとどまり、神が共におられることを味わう時間だ。祈り方がわからないなら、今日の五分から始めよう。三分、ピリピ人への手紙4章6〜7節を味わう。二分、いちばん心配なことと、一つの感謝をそのまま神に伝える。それで十分、交わりは始まっている。

清流を背景に両手を差し出し、祈りへ招くアーサー・ホーランド
祈りは義務ではなく、神と一つになる喜びの時間へ開かれた招き。