「信じたい。でも、本当に信じていいのだろうか」。答えが見えず、祈りが届いている実感もなく、心が揺れることがある。確かな証拠さえあれば、状況が変わりさえすれば、もっと強く信じられるのに——そう思う私たちに、復活のイエスは「見ずに信じる者は幸いです」と語られる。

けれど、この言葉は疑う人を責めるためのものではない。復活を目の前にした弟子たちでさえ、恐れ、取り乱し、疑っていた。イエスは彼らを退けず、閉ざされた戸の向こうまで来て、傷痕を示し、二度も「平安があなたがたにあるように」と語られた。見ずに信じる幸いとは、疑いを一度も持たない強い人の特権ではない。疑いのただ中にも来てくださる主を仰ぎ、その御言葉へ小さな一歩を委ねるところから始まる。

湖と花々を背景に、穏やかに語りかけるアーサー・ホーランド
神の国の最初の知らせは、不安ではなく平安です。

見える世界から、見えない創造主へ

メッセージは、賛美「How Great Thou Art」から始まった。山、月や星、雷、鳥の声、谷間を流れる水。私たちは造られた世界に触れる時、その美しさの背後にある、目には見えない創造主へ心を向けることができる。

自然そのものを神とするのではない。花や川や空を通して、これらを存在させ、今日も支えておられる方を思う。信仰の目は、見えるものを否定するのではなく、見えるものだけでは尽くせない神の現実へ心を開いていく。日常の小さな驚きに立ち止まることも、見えない方を仰ぐ入口になる。

五つのパンと二匹の魚——できないことより、できること

五千人を前にしたピリポは、必要な金額を計算した。アンデレは、人々の中を歩き、今ここにあるものを探した。そして一人の少年が、自分の五つのパンと二匹の魚を差し出した。それは大勢を満たすにはあまりにも小さく見えた。しかし、イエスの御手に渡された時、その小さな弁当は人々を満たす恵みとなった。

五つのパンと二匹の魚をイエスに差し出す少年
小さなささげ物も、御手に渡ると多くの人を潤します。

自分にできないことを嘆くより、できることをする。

ARTHUR HOLLANDS

信仰とは、自分の小ささを否定して大きく見せることではない。自分にできないことを数え続ける代わりに、今日できる最善を主へ差し出し、その先を委ねることだ。結果を生み出すのは自分の力ではない。けれど、その御業の入口として、私たちの小さな「はい」が用いられる。

「見ずに信じる者は幸いです」

私たちは、見えるもの、測れるもの、再現できるものを確かな現実として受け取る。しかし聖書は、現実が目に見えるものだけで尽きるとは語らない。愛、希望、良心、祈り、そして神の臨在。人生を根底から支える大切なものほど、手でつかむことはできない。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。

JESUS CHRIST — JOHN 20:29

見ずに信じるとは、根拠のない思い込みに逃げ込むことではない。御言葉を通してご自身を示し、死に打ち勝ち、今も働いておられるイエスに信頼を置くことだ。その信頼は、まだ答えが見えない時にも、私たちを絶望の結論から守る。

信仰は、望んでいる事柄を保証し、目に見えない事柄を確信させるものです。

HEBREWS 11:1

疑ったのは、トマスだけではない

トマスは「その手に釘の跡を見、私の指を釘の跡に入れ、私の手をその脇腹に入れてみなければ、決して信じません」と言った。その言葉はあまりにも率直で、彼は「疑い深いトマス」と呼ばれてきた。

しかし、ルカの福音書を重ねて読むと、恐れ、取り乱し、疑っていたのはトマス一人ではなかったことが分かる。ほかの弟子たちも、復活のイエスを前にしてなお、すぐには受け止められなかった。トマスの姿は、弱い一人の例外ではなく、信じたいのに信じきれない私たち全員の姿なのである。

復活したイエスが両手と片側のわき腹の傷を弟子に示す場面
傷を消さずに現れた主が、疑いの中にいる弟子へ平安を告げます。

トマスだけが疑ったと思われているけど、弟子たちはみんな疑っているんですよ。

ARTHUR HOLLANDS

イエスは疑いを恥じさせるのではなく、そのただ中へ来てくださる。両手の傷と、片側の脇腹の傷を示されたのは、苦しみをなかったことにするためではない。十字架にかけられた方と、今ここに立つ復活の主が同じ方であることを示すためだった。傷は敗北の印ではなく、死を越えた愛の証しへと変えられた。

閉ざされた部屋に届いた「平安」

弟子たちは人々を恐れ、戸を閉ざしていた。けれど、閉ざされた戸はイエスを締め出せなかった。主は彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と語られた。状況を説明する前に、使命を命じる前に、まず平安を与えられた。

結局、神の国の最初のメッセージは平安なんですよね。

ARTHUR HOLLANDS

神の平安は、問題が存在しないことではない。恐れよりも大きな方が、私たちのただ中におられることだ。そしてイエスは「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と語り、弟子たちに息を吹きかけられた。平安は現実から逃げるためではなく、愛を携えて現実の中へ出て行く力となる。

復活したイエスが弟子たちに息を吹きかける場面
「聖霊を受けなさい」——信仰は、主の息によって生かされます。

御言葉によって、心が開かれる

弟子たちはイエスと歩き、何度も御言葉を聞いていた。それでも十字架と復活の意味を理解できず、恐れの中で忘れていた。復活のイエスは、肉と骨のある体を示し、焼いた魚を食べ、聖書を悟らせるために彼らの心を開かれた。

信仰は、感情だけで保つものではない。心が揺れる時、御言葉は出来事の意味を照らし直す。今見えている断片だけで人生の結論を出さず、神が語ってこられた約束の中に自分を置き直す。私たちが御言葉を理解する時だけでなく、御言葉によって私たちの心が開かれる時、恐れに閉ざされていた景色が変わり始める。

失敗は、召命を終わらせない

ペテロは「たとえ皆がつまずいても、自分はつまずかない」と言いながら、イエスを三度知らないと言った。自分の強さを信じていた彼は、自分の限界を知った。それでも復活のイエスは、ペテロを切り捨てなかった。

ガリラヤ湖畔で、イエスは三度「わたしを愛しますか」と問い、ペテロに羊を託された。失敗した過去は、使命を取り上げる最終判決にはならなかった。むしろ、自分の弱さを知った者だからこそ、同じように傷つき、迷う人を養う者へと変えられていく。

ガリラヤ湖畔でペテロに語りかけるイエス
「わたしを愛するか」という問いは、失敗した者を再び使命へ送り出します。

今のお前の愛のレベルで俺と付き合えばいいよ。その中でもっともっとお前は成長し、その成長の過程で羊を育てていく。

ARTHUR HOLLANDS

完璧になってから用いられるのではない。主との関係の中で成長しながら、今日できる愛を差し出していく。信じきれない自分、失敗した自分を隠して遠ざかるのではなく、そのまま主の前に立つ時、弱ささえ誰かを支えるための経験へと変えられる。

「私の主、私の神」——疑いから礼拝へ

八日後、イエスは再び弟子たちの真ん中に立たれた。そしてトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語られた。

トマスが実際に傷へ触れたかどうかは記されていない。けれど、彼の口から出た言葉は明確だった。「私の主、私の神」。疑いを正直に言葉にした人が、弟子たちの中でもっとも深い告白へ導かれたのである。

芽と実る木を背景に、両手を広げて語るアーサー・ホーランド
トマスの応答は、「私の主、私の神」へと変わりました。

彼は、「あなたこそ主です。あなたこそ神です」と言ったのです。

ARTHUR HOLLANDS

イエスは、疑いを持ったことのない人ではなく、疑いを抱えたままでもご自身へ向き直る人を招いておられる。信仰は「私はもう何も疑いません」という自己宣言ではない。「あなたこそ私の主です」と、自分より確かな方へ心を預ける告白だ。

からし種の信仰から、神の国が始まる

からし種は小さく、土に蒔かれた直後には何も起きていないように見える。しかし、その中にはまだ見えない成長が秘められている。私たちの信仰も同じだ。小さな祈り、御言葉を開く数分、誰かへ差し出す親切、結果を主へ委ねる決断。それらは目立たなくても、神の国の種となる。

神の国は、あなたの心にあるからし種ほどの信仰から始まります。

ARTHUR HOLLANDS

見える答えがまだない時にも、神は荒野に道を、荒地に川を設けられる。小さな種が芽を出し、やがて実を結ぶように、見えないところで始まった信頼は、言葉と態度と行動を通して目に見える恵みとなっていく。

夕日の海を背景に、両腕を広げて呼びかけるアーサー・ホーランド
見えない中でも心を開き、主を仰ぎ、福音を携えて歩み始めましょう。

「信じたいのに、信じきれない」と感じるなら、その正直な心を主の前に差し出してよい。閉ざされた部屋へ来られたイエスは、あなたの不安の中にも来てくださる。そして今日も「平安があるように」と語り、御言葉と聖霊によって心を開き、小さな一歩へ送り出してくださる。

見ずに信じる者の幸いとは、何も見えないまま一人で頑張ることではない。見えない時にも、傷痕を持つ復活の主がともにおられると信頼できることだ。トマスとともに「私の主、私の神」と告白し、あなたの五つのパンと二匹の魚を、今日その御手へ委ねよう。