信仰を持っている。教会にも行っている。それでも、心の奥ではジーザスとの距離が開き、いつの間にか「これで十分」と思ってしまうことがある。黙示録に登場する七つの教会への手紙は、遠い昔の共同体だけに向けられた記録ではない。私たちの現在地を照らし、本当に大切なものを取り戻すよう呼びかける言葉でもある。
アーサー・ホーランドは、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、そしてラオデキアという七つの教会をたどりながら、とりわけ最後のラオデキアへ語られた警告を、その町の歴史と生活の中から読み解いていく。そこで見えてくるのは、厳しい裁きだけではない。中途半端なままで終わらせたくないと願う者を、なお愛して呼び戻そうとするジーザスの姿だ。
黙示録に出てくる7つの教会七つの教会を通して、今の自分を見る
七つの教会には、それぞれ異なる長所と問題があった。最初の愛から離れたエペソ、苦難の中でも忠実だったスミルナ、迫害に耐えながら妥協を許したペルガモ、愛と奉仕がありながら偶像的な誘惑を受け入れたテアテラ、生きているように見えて眠っていたサルデス、小さな力でも開かれた扉を守ったフィラデルフィア、そして豊かさの中で生ぬるくなったラオデキア。
この手紙は、他人や他の教会を裁くための一覧表ではない。「自分の中にも同じ状態がないか」と問うために読むものだ。愛が冷えていないか。苦しみの中で忠実さを失っていないか。外側の活気だけで、自分は生きていると思い込んでいないか。ラオデキアへの言葉は、その問いを避けずに心の中心へ置く。
七つの教会への言葉は、今の教会にも、そしてそこにいる一人ひとりにも語られている。
ARTHUR HOLLANDS
7つの教会にメッセージが語られている「熱くも冷たくもない」——生ぬるさの意味
ラオデキアの北には、温泉で知られるヒエラポリスがあった。南東のコロサイには、冷たく清い水が湧いていたとされる。熱い湯にも、冷たい水にも、人を生かす役割がある。ところが遠くからラオデキアへ運ばれる水は、到着する頃には生ぬるくなり、飲む者が吐き出したくなるような状態だった。
だから「冷たいか熱いかであってほしい」という言葉を、単純に「信仰がない方がまだまし」と読むだけでは足りない。熱い湯のように癒やすのでも、冷たい水のように渇きを潤すのでもない。信仰の形はあるのに、誰にも命を届けず、自分自身もジーザスを求めなくなっている。その役割を失った状態が「生ぬるさ」として示されている。
熱い水には熱い水の役割がある。冷たい水には冷たい水の役割がある。けれど、生ぬるくなってしまった水は役割を失っている。
ARTHUR HOLLANDS
私はむしろ、あなたが冷たいか熱いかであってほしい豊かさが、霊的な貧しさを隠してしまう
ラオデキアは金融と商業で栄えた町だった。銀行があり、金が流通し、黒い羊毛から作られる高価な布が売られ、目の治療や目薬でも知られていた。地震の後、ローマからの援助を断り、自分たちの資力で町を建て直せるほど豊かだったという。
その自信は教会の中にも入り込んだ。「私は豊かになった。足りないものはない」。しかしジーザスは、物質的な豊かさの奥にある霊的な現実を示す。自分の惨めさ、哀れさ、貧しさ、盲目、裸に気づいていない、と。持っているものが悪いのではない。持っているものによって、自分にはジーザスが必要だという真実が見えなくなることが危険なのだ。
目が見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい火で精錬された金、白い衣、見える目
ジーザスの忠告は、ラオデキアが誇った三つのものに重なる。「火で精錬された金」「白い衣」「目に塗る目薬」だ。金を扱う町に、本当に豊かになるための金を求めよと語る。黒い羊毛で栄えた町に、裸の恥を覆う白い衣を着よと語る。目薬で知られた町に、霊的な現実を見るための目薬を求めよと語る。
精錬の火は、ただ苦しめるためにあるのではない。不純物を取り除き、金を純粋なものにする。御言葉に照らされ、試練の中で傲慢や自己満足が砕かれる時、信仰は見せかけではなくなる。白い衣は、自分で正しさを作り上げる努力ではなく、十字架による赦しと新しいいのちに包まれることを示す。そして目が開かれる時、自分の弱さだけでなく、共にいてくださるジーザスも見えるようになる。
金が火で精錬されて純金になるように、信仰も御言葉によって練られ、金よりも輝くものへ変えられていく。
ARTHUR HOLLANDS
豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい厳しい警告の背後にある、ジーザスの愛
「口から吐き出す」という言葉は厳しい。しかし、その直後に「わたしは愛する者を叱ったり、懲らしめたりする」と続く。警告されていること自体が、見捨てられていない証拠なのだと先生は語る。もしどうでもよい存在なら、方向転換を迫る必要もない。滅びへ向かう歩みを止めたいからこそ、ジーザスは曖昧にせず語られる。
悔い改めとは、ただ自分を責め続けることではない。神から離れていることに気づき、向きを変えて、もう一度ジーザスを慕い求めることだ。生ぬるさを認めることは敗北ではない。「自分はこのままでよい」という思い込みから解放され、魂の渇きを取り戻す始まりになる。
叱られているということは愛されているということ。忠告されているということは、見捨てられていないということなんです。
ARTHUR HOLLANDS
私は愛する者を叱ったり、懲らしめたりする教会の中にいても、ジーザスを外に立たせていないか
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている」。これは、まだ一度も教会へ来たことのない人だけに向けた言葉ではない。ラオデキアの教会へ語られた言葉だ。教会の門をくぐり、礼拝の形を守り、奉仕をしていても、心の中心からジーザスを締め出してしまうことがある。
有名な「戸を叩くキリスト」の絵では、外側に取っ手が描かれていない。扉は内側からしか開けられない。ジーザスは力ずくで侵入するのではなく、声を聞き、自分の意思で扉を開くのを待っておられる。信仰の中途半端さを終わらせる転換点は、完璧な自分を作ってからではない。「このままではいたくありません」と、今いる場所で扉を開くことから始まる。
開くのは、自分の心の内側のドアノブを握り、自由意志の中で方向転換する決断なんです。
ARTHUR HOLLANDS
見よ、私は戸の外に立って叩くジーザスと共に生きる時、教会の姿も変わる
戸を開けるなら、ジーザスはその人のところに入り、共に食事をすると約束される。それは一時的な訪問ではなく、共に住み、共に生活する交わりだ。心にジーザスがおられるなら、その人の言葉、態度、家庭、職場での生き方に、少しずつキリストの品格が現れていく。
そして一人ひとりの心のあり方は、教会のあり方にも表れる。心にジーザスがいなければ、形だけの教会になる。恵み深いジーザスとの交わりを生きる人々が集まるなら、傷ついた人を迎え、愛、喜び、平安、寛容、親切、誠実、柔和、自制を運ぶ教会へ変えられていく。
七つの教会への手紙は、恐れて縮こまるためではない。自分の現在地を正直に見て、最初の愛へ戻り、眠りから目を覚まし、与えられた扉を守り、生ぬるさから方向転換するためにある。厳しい言葉の最後まで、戸を叩く音は止んでいない。今日、その声を聞いたなら、今日こそ扉を開くことができる。