夜中に目が覚めて、そのまま眠れなくなる。考えても答えの出ないことを、何度も何度も頭の中で並べ替えている。お金のこと、家族のこと、明日の予定、まだ起きてもいない出来事。朝になれば何も変わっていないのに、心だけがすり減っている。

そういう夜を過ごしたことのある人に、このメッセージは届く。アーサー・ホーランド先生がこの日開いたのは、ルカの福音書12章。イエスが弟子たちに向かって、心配という主題を正面から扱われた箇所だった。

スタジオで「心配」という漢字の成り立ちについて語るアーサー・ホーランド
「心配」という言葉そのものに、この日のメッセージの入口があった。

心配とは、心を配ること

アーサー先生は、まず日本語の成り立ちに目を留める。

心配とは心を配るっていう風に漢字で書きますよね。ARTHUR HOLLANDS

心を配る。あちらに配り、こちらに配り、先回りして配る。配っているうちに、自分の手元には何も残らなくなる。英語ならworryと訳されるその状態を、日本語はもっと正確に言い当てていた——配りすぎて空になった心のことだ、と。

自然の中に立つと、問題の大きさが変わる

メッセージは賛美から始まった。「輝く日を仰ぐとき」——月や星を眺め、雷の鳴り渡る音を聞き、森で鳥の声を聞くとき、人はまことの神を思う、という古い賛美歌だ。

賛美に続けて、自然の中で問題が小さく見えた体験を語るアーサー・ホーランド
浜辺や山の頂で、抱えていた問題の大きさが変わっていく体験が語られた。

行き詰まったとき、人の足は自然の方へ向かう。アーサー先生自身、悩みを抱えるとハンティントンビーチの浜辺に座り、山の頂から街を見下ろしてきた。すると不思議と、都会で抱えていた問題が小さくなる。「なんであんなことで悩んでたんだろう」と思えてくる。

それは現実逃避ではない。パウロがローマ人への手紙で書いたとおり、神の目に見えない性質は、造られたものを通してはっきり認められる。自然は無言のまま、造り主がおられることを証言している。心配で狭くなった視野を、被造物が押し広げてくれる。

wanderから、surrenderへ

この日の主題を、アーサー先生は二つの英単語で示した。

wanderとsurrenderという二つの英単語を対比して語るアーサー・ホーランド
迷い放浪する人間に、イエスは「委ねる」という別の動詞を差し出す。

人間って英語で言うとwander、迷う、放浪する生き物なんだな。でもジーザスはそういう俺たちにwanderからsurrender、悩み、問題、委ねて。ARTHUR HOLLANDS

wanderは迷い、さまようこと。神から離れたイスラエルの民が荒野を放浪したように、人は自分の我を貫こうとするほど、かえってカオスの中へ入っていく。その私たちに向かって、イエスは「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」と言われる。surrender——委ねる、明け渡す。

そして「主が心配してくださる」という表現が続く。

主が心配してくださるから、ジーザスに心配任せなさい。He cares for you.ARTHUR HOLLANDS

心配をゼロにしろ、という話ではない。心配の宛先を変えろ、という話だ。あなたに心配を煽る人はいる。けれど、あなたの心配を引き受けてくれる方がいる。

この箇所の前に、何があったか

アーサー先生は、22節から読み始める前に必ず背景を見る。ルカ12章13節。群衆の中の一人がイエスのところへ来て、こう頼んだ。「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」。

群衆の中で、遺産相続の相談をイエスに持ちかける男性
病の癒やしでも悪霊の追い出しでもなく、この人が持ち込んだのは遺産の問題だった。

癒やしを求めて来る人、悪霊を追い出してほしいと願う人が集まる中で、この人が持ち込んだのは相続の相談だった。イエスの答えは、どこかユーモラスですらある。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか」。

アーサー先生は指摘する。この人は、目の前におられる方を救い主としてではなく、自分の問題を解決してくれる存在として見ていた。魂の救いをこの方から受け取れば、その問題ごと吹き飛んでいくかもしれないのに、見ているところが財産だった。だからイエスは主題を言い当てる——「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい」。

大きな倉を建てた人

続けてイエスはたとえを話される。ある金持ちの畑が豊作だった。彼は考える。作物を蓄えておく場所がない。よし、あの倉を取り壊してもっと大きいものを建てよう。そして自分の魂に言う。「魂よ。これから先、何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」。

石を積み、足場を組んで大きな倉を建てる人々
蓄えが完成した夜に、その人のたましいは取り去られる。

ところが神は言われる。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」。蓄え終えた安心の只中で、命が終わる。残された財産だけが、よく見えるところに残る。

ここでアーサー先生は、貪欲から自由になる方向を示す。

貪欲から解放されるのは、もらうじゃなくて捧げるってことなのかもしれないね。ARTHUR HOLLANDS

与えられることばかりを数えている限り、心は満たされない。神ご自身が、御子を与えるという仕方で愛を示された。与える方を受け取った人は、与える者に変えられていく。四十年、お金を追いかける働きではなく神を追いかける働きをしてきた、という自身の歩みが、その言葉を裏打ちしていた。

財産を残して生きるんじゃなくて、信仰の姿の遺産を残して生きた方がはるかにいい。ARTHUR HOLLANDS

烏を見なさい、野の花を見なさい

そしてイエスは、身近な二つのものを指さす。烏と、野の花。

広い空の下、野を横切って飛ぶ烏の群れ
蒔きもせず、紡ぎもしないものが、今日も養われ、装われている。

「烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます」。アーサー先生は毎朝二時間ほど散歩をする。賛美しながら歩いていると、烏が横切っていく。堂々としていて、人の気配を感じても逃げない。あの図太さで、彼らは今日も生きている。

彼らの方が自然の法則の中に委ねて心配せずにね、カラス今日何食おうかなんて心配してない。野の花何着ようかなんて心配してない。ARTHUR HOLLANDS

さらに前の12章6節に戻って、雀の話も引かれた。五羽の雀は二アサリオンで売られている。当時もっとも安い部類の銅貨で、一日の賃金を一万円とすればその八分の一から十六分の一ほど。四羽分の値段で五羽買える、おまけがつくほどの安さだった。それでも「そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません」と書かれている。

神の配慮は、値札のつかないところまで届いている。「あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです」。栄華を窮めたソロモンでさえ、野の花の一つほどにも着飾ってはいなかった。ならば、あなたにはどれほどよくしてくださるだろうか。

宝のあるところに、心もある

29節、「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい」。31節、「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます」。

日の光が差す空の下、岩の上に置かれた古い革の財布
「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです」。

そして33節から34節。持ち物を売って施しをしなさい。古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには盗人も近寄らず、しみもいためることがない。なぜなら——「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです」。

心配とは、心を配ること。ならば、心がどこにあるかは、宝をどこに置いたかで決まる。順番が逆なのだ。心を落ち着かせようとするより先に、宝の置き場所を変える。

地上で宝を蓄える者じゃなくて、天に宝を蓄える者になる。キングダムメンタリティ、神の国のメンタリティを持つ者になる。ARTHUR HOLLANDS

32節には、こうも書かれている。「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです」。恐れなくていい理由は、あなたが強いからではない。与えたがっておられる父がいるからだ。

今夜、手を開く

メッセージの終わりに、アーサー先生は正直な祈りを言葉にした。クリスチャンと言いながら、いつもお金の心配をし、通帳を見てはいら立ち、不安になり、もっと貯めなければと思ってしまう——例え話の金持ちと、そう遠くない自分。

その上で語られたのは、二枚のレプタを献げた女性のことだった。これを献げたら何も残らない。いや、何もないのではない。あなたがいる。何もないところから神が何かをしてくださる、その冒険に満ちた信仰へ。

だからといって無計画に生きることでも、家計簿をつけないことでもない、とアーサー先生は釘を刺す。知恵と知識の宝である主から知恵をいただきながら、受け取るより与えることに喜びを見いだしていく。私たちはその領域を、まだ体験しなさすぎている、と。

今日の問いに戻ろう。今夜あなたが手放せずにいる心配に、一つだけ名前をつけるとしたら。それを紙に一行書き出して、「これはあなたに委ねます」と声に出してみる。そして一日のうち十分だけ画面から離れて、空と木と鳥を眺めてみる。心配して寿命を延ばせた人は、まだ一人もいない。けれど、あなたの必要をすでに知っておられる方は、確かにおられる。