誰かに認められた日は、自分まで少し大きくなれた気がする。反対に、何気ない一言や冷たい視線に触れた日は、自分の中にあったはずの価値まで消えてしまったように感じる。人の評価には、私たちの心を明るくする力も、深く傷つける力もある。

けれども、評価は移ろう。昨日の称賛が今日も続くとは限らず、失敗や挫折のあとには、自分で自分を低く見積もってしまうことさえある。佐渡島十字架行進DAY04、真野シェアベースカフェでのメッセージで、アーサー・ホーランドは、その揺れのただ中へ「You are loved」と語りかけた。あなたの価値は、人に認められて初めて生まれるものでも、自分の実績で証明するものでもない。神のまなざしの中で、すでに受け取ることのできるものだという。

真野シェアベースカフェで来場者に語りかけるアーサー・ホーランド
「You are loved」という一貫したメッセージを、佐渡の会場でまっすぐに届ける。

愛されるために、頑張り続けなくていい

メッセージの出発点は、人にとって愛は空気のように欠かせないという実感だった。誰もが愛し、愛されたいと願う一方で、「愛」という言葉の意味は人によって違う。よかれと思ったことが相手を傷つけたり、相手を愛しているつもりで自分の満足を優先したりすることもある。アーサー先生は、それを「ボタンの掛け違い」と表現する。

だからこそ、最初に立ち返りたいのは「もっと愛される自分になろう」という努力ではない。弱さを隠し、期待に応え、役に立つことで愛を確保しようとすると、少しの失敗で心の土台まで崩れてしまう。必要なのは、自分がすでに愛の対象であることに気づくことだ。

愛されようと努力する必要ないんだと。愛されているということに気づくだけでいいんだと。ARTHUR HOLLANDS · 00:01:55

これは努力や成長を軽く見る言葉ではない。愛を得るために生きるのではなく、愛されているところから生き始めるという、立つ場所の違いである。受け取った愛は、自分を飾るためではなく、隣にいる人を大切にする余白へ変わっていく。

手前の一頭と、丘に広がる羊の群れを描いた挿入映像
愛を獲得する競争から離れ、すでに注がれている愛へ心を向ける。

広く、深く、高く――漏れる人のいない愛

人の愛は、ときに近い人だけ、期待に応えてくれる人だけへ向きやすい。けれどもこのメッセージで語られる神の愛は、広く、深く、高い。迷った一匹を探しに出る羊飼いのように、群れから外れた一人を見過ごさない。言葉にできない後悔や、自責の念で乾いた心の奥まで届き、絶望の低い場所から希望へ引き上げる愛として語られる。

しかし、神の愛は大きな広い愛。誰一人として漏れない愛。ARTHUR HOLLANDS · 00:04:23

その中心に置かれたのが、友のために命を捨てるほどの愛と、ひとり子を与えるほど世を愛された神についての聖書の言葉だった。傷のない人だけが招かれているのではない。自分で自分を赦せない人も、自分の価値を見失った人も、愛の外へ追い出されてはいない。十字架は、神の愛が観念ではなく、こちらへ差し出された出来事であることを示している。

夕空を背に、岩の丘に立つ木の十字架を描いた挿入映像
十字架が示すのは、遠くから評価する視線ではなく、命を差し出して近づく愛。

十字架を担ぎ、歩き続ける理由

アーサー先生は、なぜ十字架を担いで歩くのかを語った。教会の中だけに十字架を置くのではなく、道の上へ運び出し、「あなたは愛されている」という知らせを目に見える形で届けるためだという。雨の日も、暑い日も、一足ずつ歩く。歩くことには速さとは違う時間があり、その時間が人や自然との出会いを連れてくる。

あなたは愛されているっていうことを担ぎながら見せているわけですね。ARTHUR HOLLANDS · 00:07:07

佐渡島の海沿いを歩いたこの日々にも、同じリズムがあった。話しながら歩けば痛みを忘れるほど楽しい。けれども一行は、あえて沈黙して歩く時間も持ったという。足を止め、また進む。誰かの評価を追いかける速度から離れると、自分の外にも内にも、これまで聞こえなかったものが聞こえ始める。

穏やかな海岸と夕空を描いた、メッセージ中の挿入映像
波、蝉、鳥、風。沈黙は、心を空白にするのではなく、聞く力を取り戻していく。

静まると、評価の声が遠のいていく

十キロほど沈黙して歩いたとき、波の音、蝉の声、鳥のさえずり、肌を通り抜ける風が、次々と輪郭を持ち始めたと語られた。忙しさの中では聞き流していた音である。そして外の音が聞こえ始めると、自分の内側に押し込めていた悩みや思いも浮かび上がってくる。

人間静まったらね、自然の音が聞こえるんですよね。ARTHUR HOLLANDS · 00:12:36

静まることは、悩みがないふりをすることではない。痛かった言葉、届かなかった願い、もう終わったと思っていた夢を、そのまま見つめ直す時間である。自然の大きなリズムに触れると、自分だけを見つめて固くなっていた心に、少し距離が生まれる。詩篇の「静まって、わたしこそ神であることを知れ」という招きが、佐渡の海辺の経験と重なっていく。

人の声は大切である。しかし、それが自分の存在価値を決める最後の声になる必要はない。静けさの中で、造られ、生かされ、愛されている自分をもう一度受け取り直す。そこから、評価に振り回されない自由が始まる。

神の視点から自分を見ることについて語るアーサー・ホーランド
変わりやすい人の評価から、変わらない神のまなざしへ視線を移す。

神の視点で、自分を見直す

メッセージは創世記へ進み、人が神のイメージを運ぶものとして造られたと語る。何もない土から形づくられ、息を吹き込まれた存在だから、価値は肩書きや成績よりも先に与えられている。アーサー先生は、それを神に「デザインメイクされた傑作」と表現した。

幼いころにかけられた褒め言葉で、急にある部分が誇らしくなった。反対に、別の一言で、それまで気にしていなかったところがコンプレックスになった。そんな自身の経験を、ユーモアを交えて振り返る。人の言葉にはそれほどの力があるからこそ、どの声を自分の基準にするのかが問われる。

神の視点から自分を見たら、そういう風に神は見てくれているってことなの。ARTHUR HOLLANDS · 00:23:50

他人の声を神の声より優先すると、自分の本質から少しずつ「ぶれ」、アイデンティティを見失っていくと説く。けれども、失ったものを責めるだけで終わらない。神の愛は、傷つけ合う連鎖の中へ入り、癒し、赦し、本来の自分へ連れ戻す愛である。神の目に映る自分を知ることは、傲慢になることではない。自分も隣人も、同じ愛の中に置かれた尊い存在として見ることにつながる。

挫折のあとに与えられた新しい道と安らぎについて語るアーサー・ホーランド
失った夢で人生の価値を測らず、重荷を委ねて次の道を受け取る。

挫折は、価値の終わりではない

アーサー先生自身、人からの評価だけでなく、達成できたかどうかによっても自分を測りそうになった時期があった。柔道でオリンピックを目指しながら、敗北と首の負傷を経験し、夢が閉ざされたと思った。海辺で一人になり、波の音を聞いていたのは、その挫折のただ中だったという。

その後、聖書の「疲れている者、重荷を負っている者は来なさい。休ませてあげよう」という招きに出会う。重荷を自分だけで支え続けるのではなく、イエスとつながる「くびき」の中で安らぎを受け取る。やがて自分が選手として立てなかった場所へ、選手を支える者として赴く道が開かれたと振り返る。

夢の形は変わっても、存在の価値は失われていなかった。成功したから愛されたのでも、回復したから尊くなったのでもない。愛されている人として挫折の中を通り、その先で新しい役割を受け取ったのである。結果が出なかった自分、動けない自分、誰かの役に立てないと感じる自分も、神のまなざしからこぼれない。

暖かな光が差し込む馬小屋と、空の飼い葉桶を描いた挿入映像
飼い葉桶に生まれたイエスの話から、自分の心にも神を迎えるようにと招く。

神は、こちらへ来てくださる

メッセージの終盤には、首を負傷して療養していたころ、散歩の途中で出会った高齢の男性と祈った思い出も紹介された。その時にはわからなくても、あとから振り返ると、人生の出来事の中に導きが見えてくることがある。

ここで結論は、私たちが努力して神のいる場所まで上っていくという話ではなくなる。神は、私たちの方へ来てくださる。立派に整えた心だけではなく、疲れ、傷つき、隠したくなるものを抱えた心にも入ってきてくださる。空気を呼吸するように、その愛を受け取り、心の扉を開くことが招かれている。

十字架は私のためにあったんだ。私が愛されていることを表すためだったんだね。ARTHUR HOLLANDS · 00:47:37

誰かの評価で心が揺れるとき、今日の問いへ戻ってみたい。いま私は、どのまなざしに自分の価値を預けているだろう。人の声をすべて閉ざす必要はない。ただ、その声より深いところに「あなたは高価で、尊く、愛されている」という神の声を置く。そこから、自分にも人にも、少しやさしくなれる一歩が始まる。