大切な人に思いを伝えたいのに、言葉を重ねるほど、かえって距離ができてしまう。反対に、何も言わずにそばにいてくれた人のことを、今も忘れられない。そんな経験はないでしょうか。人の心に届くのは、上手な説明だけではないのかもしれません。
2026年7月24日、His Call Church IGNITEで語られたアーサー・ホーランド先生のメッセージは、神の愛を語ることと、その愛に生かされて暮らすことを、私たちの日常へ結び直していきます。

言葉を探す前に、愛を受け取る
メッセージは、五島列島のキリシタンたちへの思いから始まります。人を救うのは、巧みな話や説得の力ではない。聖霊が人の内側に働かれるのだと、先生は語ります。
だからこそ、自分自身も神との関わりに生きる。先生にとって聖書を読む時間は、話す材料を集めるだけの時間ではありません。ジーザスから届いたラブレターを読み、自分が愛されていることを確かめる時間です。誰かの否定的な言葉で沈んだ心が、御言葉によって励まされる。その日々の交わりが、人に向き合う姿を育てていきます。
その根底にあるのは、神は良いお方だという信頼です。先生は、神が造られた世界を良しとされたことに触れ、私たち自身も神の姿に似せて造られた存在だと語ります。人との比較で自分を測る前に、造り主のまなざしで自分を受け止める。生き方が語り始める場所は、そこにあるのです。

捨てられないブーツが伝えていること
神の愛は、きれいに整った人だけに向けられるのでしょうか。先生は、修理を重ねて履き続けたブーツの話をします。破れるたびに革を継ぎ当て、もとの姿がわからなくなるほど直してきた一足です。
イエスが俺を捨てないように、俺もこの靴を大切にしたい
アーサー・ホーランド/本編 00:16:15
笑いを交えた身近な話は、アダムとエバの姿へつながります。罪を犯し、葉で身を覆った二人に、神は革の衣を与えられた。先生はその場面に、罪のある人間を見捨てずに包む愛を見ています。そして、その愛が十字架と復活を通して示されたのだと語ります。
私たちも、失敗すると弁解したくなります。人のせいにし、弱さを隠し、顔を合わせることを避けたくなる。その自分の姿に気づくことと、見捨てない方のもとへ戻ることは、切り離されていません。取り繕うためではなく、もう一度、正直に生きるための赦しです。

自分の力では変えられない人の前で
先生が拘置所の友人を訪ねたとき、問いかけたのは、どこにいるのかということでした。友人は施設の名前を答えます。しかし、聞きたかったのは住所ではありません。
お前と神との関係の中でお前はどこにいるんだ?
アーサー・ホーランド/本編 00:30:11
この問いは、聞く私たちにも返ってきます。自分の行動を正当化しているうちに、大切なものから離れてはいないか。何が良いのかを、自分に都合のよい基準だけで決めていないか。先生は、御言葉から知恵を受け取る必要を語ります。
一方で、人を思う気持ちが強ければ、必ずその人を変えられるわけではありません。先生自身、注意し、相談を受け、できることをした末に、祈るしかない場所に立っています。人を救うのは自分の力ではない。そのことを祈りの中で教えられるという言葉には、関わり続けてきた人の切実さがあります。祈りは、何もしないための言い訳ではなく、自分にはできないことを神に委ねる営みとして語られています。

実らないと、先に決めない
先生は再び五島列島へ思いを向け、迫害の中でも信仰を保った人々への敬意を語ります。同時に、『沈黙』をめぐる自身の受け止めを語り、日本を福音の根づかない土地と見ることに、強く異を唱えます。
そこには、自ら歩き、人に出会い、信仰を持つ人々を見てきた実感があります。ただし、先生は人間の完全さを語っているのではありません。踏み絵を踏むかどうかだけで、神の恵みや愛は変わらないとも話します。
形を守れた人だけが愛されるのではない。それでも、神を信頼して生きる姿には、人に届くものがある。私たちも、目の前の人には届かないと、出会う前から結論を出していないでしょうか。

塩も光も、静かに働いている
メッセージの中心に置かれるのは、マタイの福音書 5:13-16の、地の塩と世界の光という言葉です。先生が強調するのは、努力して塩になろうという順序ではなく、ジーザスを信じる者が、すでに塩と呼ばれているということです。
でも塩も光もサイレントなんだよ。
アーサー・ホーランド/本編 00:51:41
それは、何も伝わらない静けさではありません。神との交わりを通して内側から変えられ、その人の存在や生き方が、置かれた場所で働いていく。そのことを、先生は職場にいる一人の信仰者にも重ねます。
さらに、塩と光の言葉の前には、心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者への祝福があることに目を向けます。光と呼ばれるのは、悲しみを知らない立派な人だけではありません。慰めを必要とする人が、ジーザスのもとで受け取ったものを携えて生きる。そう読むと、光を輝かせるという招きが、遠い理想ではなくなります。

船着場の売店で、すでに届いていたもの
五島列島を十字架を担いで歩いた旅には、印象的な出会いがありました。先生が語るのは、大雨の日に島を歩き、船着場へ向かったときのことです。
売店の女性は、アーサー先生が来ていると知って驚きました。映像やブログに触れ、赦すこと、愛することに心をひかれていたのです。まだクリスチャンではないけれど、そういう生き方をしたい。その願いを聞き、先生はジーザスを心に迎えることを伝え、女性は信じると応答したといいます。
この人のためにこの島に来たんだ
アーサー・ホーランド/本編 01:00:26
先生は、その出会いをこう振り返ります。誰かに届けた言葉が、いつ、どこで受け取られているかは、こちらには見えません。一人の人生に触れる出会いは、私たちが成果を数える場所とは違うところで、育っているのかもしれません。
一人で背負わず、手を取り合う
終盤には、広い麦畑で幼い子を見失った家族の話が紹介されます。両親が探しても見つからず、町の人々が手をつないで捜し、夜明けに見つけたときには、子どもは亡くなっていました。もっと早く皆で手をつないでいたらという悲しみから、先生は、共に福音を届けることへ話をつなぎます。
一人の熱意だけで、すべてを背負うのではない。手を取り合い、それぞれの場所で、神の愛を表していく。その呼びかけの中で、先生はこう語ります。
沈黙の中にあっても、語らずにして語っている。
アーサー・ホーランド/本編 01:04:59
ただし、それは人に合わせて大切なものを曖昧にすることでもありません。先生は、世間に受け入れられるために福音を変えてしまうことにも警鐘を鳴らします。人を愛する柔らかさと、御言葉に立つ誠実さ。その両方を、日々の姿に問うメッセージです。

今日の背中は、今日の交わりから
結びで先生は、福音書を少しずつ読むことを勧めます。聖書は、知識を増やすだけの書物ではなく、
イエス様の御声を聞く書物、イエス様と交わる書物。
アーサー・ホーランド/本編 01:07:52
家族や職場の友の名前を挙げる祈りも続きます。遠くの誰かだけでなく、いつも顔を合わせる一人へ。皆と同じ姿になるのではなく、それぞれの個性をもって、ジーザスの愛を伝えていくことへと招かれます。
今日、誰かに話しかける前に、少しだけ御言葉を開く。相手を説得する前に、その人の話を聞く。行き詰まったら、一人で抱えず、共に祈る人に声をかける。背中で語る生き方は、特別な舞台に立つ日を待たなくても始められます。今日会う一人の前で、どんな自分でいたいでしょうか。その問いを、まずジーザスの前に置いてみませんか。