「神様、あなたに従います」。そう祈ったはずなのに、いざ自分の予定と違うことが起きると、「いや、それは困ります」と言いたくなる。信じていないわけじゃない。でも、ここだけは譲れない。そんな自分を、私たちはどれくらい知っているでしょう。

今回、アーサー先生が開くのは、マルコの福音書8章。「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」という言葉です。立派な覚悟を持った人だけに向けた話ではありません。ジーザスを信じながら、ジーザスにダメ出しまでしてしまったペテロ。その姿をたどるうちに、私たちが握りしめているものも見えてきます。

三十年前のサインが、そこにあった

聖書を開く前に、先生は玉川学園を訪ねた日の話をしてくれます。高校一年生にメッセージを届けに行くと、一人の女性の先生が、賛美歌の本を持って挨拶に来た。その本には、三十年前、彼女が生徒だったときにもらったアーサー先生のサインがありました。

俺のサインそんなに変わってないなとちょっと思ったんだけど。

思わず笑ってしまう一言です。けれど、その女性の話はそこで終わりません。教会へ話を聞きに行ったこと。友達の結婚式で、司式をしている先生と再会したこと。そして今度は、自分が受け持つ生徒たちが先生の話を聞くのだと、熱を込めて話してくれたのです。

生徒たちには、印象に残った言葉と、そこから学んだことを書いてもらう。それを先生にも送りたい。三十年前に話を聞いた一人の生徒が、今は次の生徒たちへ、その時間を手渡そうとしていました。

何を学んだか。どれほど知識が増えたか。その知識を携えて、どんな人になるのか。先生が礼拝を「心が豊かになる時間」と呼ぶのは、そこが問われるからです。人の目やSNSの声ばかり気になる毎日に、神は自分をどう見てくださっているのかを聞く。その時間が、人への接し方や、自分の生き方を変えていきます。

山と渓流の背景で語るアーサー・ホーランド
三十年を越えて届いていた言葉。玉川学園での再会から、心の教育を語ります。

「自分を捨てる」。その前に、受けた愛がある

「自分の十字架を負いなさい」。今の私たちは、十字架と聞けばイエスを思い浮かべます。でも、この言葉が語られたとき、イエスはまだ十字架にかかっていません。当時の人たちが知っていたのは、ローマの支配のもとで人が処刑される、恐ろしい十字架でした。

その人たちに「自分の十字架を負って、ついて来なさい」と呼びかける。先生は、そこに「私についてくるのに命懸けだよ」という重さを聞き取ります。祝福は欲しい。でも、自分が握っているものには触れてほしくない。そんな私たちの思いを、この言葉は素通りしません。

先生は、ご自身も十字架を担いで歩きます。そのときに重ねるのは、キリストと共に十字架につけられ、今はキリストが自分の内に生きておられるという、パウロの告白です。

ここで先生は、二つのことを丁寧に語り分けます。イエスの十字架は、私たちの罪を贖う十字架。罪のない方が、私たちのために命を捧げてくださった。その愛を受けた自分が、神から離れ、自分の欲だけで生きようとする「我」に死に、キリストに生きる。それが、自分の十字架を負うことにつながるのです。

この愛に応えて、私たちも自分自身を捧げる。

先にあるのは、イエスが捧げてくださった命です。自分を捨てられるほど強くなったら神に近づける、という順序ではありません。私を愛してくださった方が、私の内に生きてくださる。その方に従うとき、守ることばかり考えていた自分の生き方が、新しくされていくのです。

丘に並ぶ十字架と兵士を描いた挿絵
十字架の重さを知る人々に向けて、ジーザスは「ついて来なさい」と語られました。

同じ富士山を、四つの方向から見るように

では、なぜイエスは、この場面で十字架の話をされたのでしょう。先生は一つの節だけで話を終えず、マルコが何を伝えようとしているのかへ、いったん視野を広げます。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。四つの福音書を、先生は富士山にたとえます。北から見る富士山、南から見る富士山、東から、西から。同じ山でも、見る方向によって姿が違う。四つの福音書を読むことで、イエスと弟子たちの関わりが、もっと立体的に見えてきます。

マルコの書き出しは、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。最初から、誰について語るのかが示されています。その先で人々は、イエスの言葉を聞き、なさることを見て、それぞれに答えていく。救い主だと言う人もいれば、受け入れない人もいる。

そして、読んでいる私たちにも問いが届きます。あなたは、この方を誰だと言うのか。人がどう言っているかを知っているだけでは、答えになりません。

ペテロは「あなたはキリストです」と答えました。ところが、そのペテロがすぐ後で、イエスを止めようとするのです。

信じたはずの相手に、ダメ出ししてしまう

イエスは、ご自身が多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、三日の後によみがえることを、はっきりと教え始められました。先生は、聞いていた人たちの驚きを、一つずつ声にします。メシアが苦しむの? 捨てられるの? 助けに来る方が、殺されるの?

人々が思い描いていたのは、ローマの支配を打ち破り、自分たちを勝たせてくれる救い主。その期待の中に、苦しんで死ぬメシアの居場所はありませんでした。

ペテロはイエスを脇へ連れ出し、いさめ始めます。先生の言い方では、「神にダメ出しし始めた」。イエスを信じている。大切に思ってもいる。それなのに、自分が思い描いた救い方と違うと、イエスのほうを直そうとしてしまう。

イエスは、ほかの弟子たちも見ながら、ペテロを叱られます。「あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」。この言葉を、先生は遠い昔の弟子への叱責にしておきません。

気をつけないと俺らも同じなんです。

さっきまで主をほめたたえていた同じ口から、神の約束を打ち消す言葉が出てしまう。先生はここで、日本で福音を伝えることを「難しい」「わからない」と、初めから決めつけてしまう言葉にも切り込みます。時が良くても悪くても伝えるようにと招かれているのに、自分たちの見通しで、その先を閉じてはいないか。とりわけ、人に影響を与える立場の者が、希望をなくさせる言葉を語っていないか。

これは、誰かの信仰の弱さを探すための話ではありません。自分が今、何を根拠に「無理だ」と言っているのか。その言葉を、自分の口元で聞き直すための問いです。

イエスに語りかけるペテロを描いた挿絵
「あなたはキリストです」と告白したペテロが、今度はイエスを止めようとします。

心のアイドリングが、高くなっていないか

先生は、イエスが荒野で受けた誘惑にも目を向けます。空腹の中で、石をパンに変えるように促される。世界の栄華を差し出される。そのたびにイエスは御言葉によって応じ、父なる神に従う道を歩まれました。

壮大な聖書の話から、先生はふっと、今日の予定の話に移ります。メッセージをしなくちゃいけない。準備もある。まだ食事もしていない。あれも、これも――。そうしているうちに、心の「アイドリングが高くなる」。

忙しい日の自分を思い出す言い方です。予定が詰まっているだけだったはずが、心配にとらわれ、余裕がなくなり、最後はそばにいる人に当たってしまう。先生は、こんなところにも試みがやってくるのだと語ります。

委ねないとお前が心配を背負うってことなんですよ。

思い煩いを神に委ねる。心を騒がせず、神を信じる。よく知っている御言葉が、焦っている今の自分に必要になります。イエスが御言葉によって生きられたように、自分も、この場面でその言葉を頼りにする。十字架を負って従う歩みは、今日、人にどんな言葉を返すかというところにも続いているのです。

荒野に立つイエスを描いた挿絵
荒野での誘惑から、予定に追われる一日の心へ。御言葉を頼りに生きる場所は、今ここにもあります。

失敗したペテロに、朝ごはんが待っていた

ペテロは、主のために命を捨てるとまで言った人です。それでも、いざというときには「知らない」と三度言ってしまった。従いたい心はある。でも、弱い。先生はその姿を語りながら、自分の力ではクリスチャンの歩みを続けられないのだと繰り返します。

そのペテロの前に、復活したイエスが現れます。岸辺には焼いた魚とパン。イエスだと気づいたペテロは、泳いでそのもとへ向かいます。

自分を守ろうとして、主を知らないと言った人。その人のために、主が食事を用意しておられた。そして「私を愛するか」と問い、羊を養う務めを、もう一度託されるのです。

ペテロの失敗を、先生は小さなことにはしません。けれど、その失敗が彼の最後の姿でもありません。自分の弱さを知った彼が、今度は主の力によって、人を養う者として歩んでいく。「自分に死に、キリストに生きる」とはどういうことか。その言葉に、ペテロという一人の人の歩みが重なります。

私たちも、意志の強さだけで自分を変えようとして、行き詰まることがあります。だから、御言葉を聞き、聖霊の助けを求め、祈る。できる自分を見せるためではなく、できない自分を主の前に差し出して、共に歩んでいただくために。

木々を背景に語るアーサー・ホーランド
失敗を知るペテロに、再び羊を養う務めが託されました。

「このレベルまではできるけど」――先生にもあった戦い

話は、私たちが持っているものへと進みます。豊作に恵まれ、倉をもっと大きくしようとする金持ち。これだけあれば、先々まで安心だ。そう思ったその日に命が終わるなら、蓄えたものはどうなるのか。全世界を得ても、いのちを損なったら、何を得たことになるのでしょう。

そこで先生は、最近ご自身が経験した葛藤を明かします。神に献げるように示されたとき、「このレベルまではできるけど」と思った。ずっと、あなたのものです、御国のために、と祈ってきた。それなのに、実際に差し出す時が来ると、心に戦いが起きたのです。

自分がいかにそれに囚われているかわかった。

人には「献げよう」と語れる。でも、自分の手を開くとなると話が違う。先生は、その自分を隠さずに話します。だから、ペテロの姿も、金持ちのたとえも、遠くの誰かの話ではなくなります。自分にも、ここまでは差し出せる、ここからは手放したくない、という線があるのです。

先生は、知恵ある管理をしなくてよいという意味ではない、ともはっきり付け加えます。命も、持っているものも、神から託されたもの。その管理を任されている自分は、何のために使うのか。神と共に考え、用いていくのです。

何を持っているか。それを数えるだけでは、自分が何のために生きているかは見えてきません。受け取った愛を、誰に手渡したか。託されたものを、どう用いたか。先生の言葉は、そこへ私たちを連れていきます。

人生どれだけの愛を集めたかじゃない。どれだけの愛を与えたか。

花の咲く庭で語るアーサー・ホーランド
献げる葛藤を、ご自身の言葉で。託されたものを何のために使うのかが問われます。

「ハングリーになれよ」

メッセージの終わりに、先生はもう一度、主を求めるように呼びかけます。「主よ」と口にするだけで終わらず、その方と交わり、その言葉にとどまり、共に歩んでいく。その中で、弱い者を強くする神の働きが起こるのだと。

自分を捨てようとして、捨てきれない自分が見えた。信じると言いながら、自分の都合を優先していた。そこに気づいたら、弱い自分をあわれんでくださいと求めればいい。求め、たたき、探し続けるようにと、先生の声に力が入ります。

ハングリーになれよ。

冒頭の賛美には、水を慕う鹿がいました。終わりに残るのも、その渇きです。自分の中に十分な強さがあるから進むのではありません。この方を必要としているから、求め続けるのです。

今日、自分は何を守ろうとしているのか。まず一つ、主に話してみる。そして、託されている時間を、目の前の人のために使ってみる。大切なことは、何を持っているかより、何のために生きているのか。その問いを、今日の祈りと、一つの行動にしていきましょう。

谷川の水を飲む鹿を描いた挿絵
渇いた鹿が水を求めるように。主を求める賛美から始まったメッセージは、求め続ける招きで結ばれます。