人を迎える前に部屋を片づけるように、誰かと会うとき、私たちは自分の見せ方を整える。きちんと受け答えをし、任されたことをこなし、できれば心配もかけたくない。けれど、外からは何事もなく見える一日の途中で、本当は疲れていることや、助けを求めたい気持ちを、誰にも話せずにいることがある。

今回のThe Dailyで、アーサー先生が掲げる主題は「dwelling place」、住まいだ。天と地を造られた神は、どこに住まわれるのか。イザヤ書66章1〜2節から始まるメッセージは、壮大な神殿の話を、私たち一人ひとりの心へと近づけていく。神を迎えるために、まず立派な自分にならなければならないのだろうか。その問いを抱えながら、先生の語りをたどってみたい。

麦畑を背景に神の住まいについて語るアーサー先生
天と地を造られた方が、一人の心に目を留める。そこから今回のメッセージは始まる。

神が目を留めるのは、取り繕わない心

天をご自分の王座、地を足台と呼ばれる方に、人はどんな家を用意できるのだろう。イザヤ書の問いは、人間の建てたものの大きさを超えている。その神が目を留めるのは、へりくだり、心を砕かれ、御言葉におののく人だと続く。自分の力で神を感心させることよりも、その前でどのように心を開くかが問われている。

アーサー先生はここで、神殿に祈りに来た二人のたとえを取り上げる。ルカの福音書18章9〜14節に登場するのは、パリサイ人と取税人だ。自分の正しさを並べ、ほかの人と違うことを感謝する祈りの傍らで、取税人は胸をたたき、罪人である自分へのあわれみを求める。ジーザスが、義と認められて帰ったと語られたのは、後者だった。

このたとえを自分の日常に引き寄せるなら、誰かよりよくできていると証明し続ける代わりに、神の助けが必要な自分を認めることなのだろう。へりくだるとは、自分には価値がないと言い聞かせることではない。言い訳で隠してきた弱さや過ちを、あわれみ深い方の前に差し出すことだ。先生は、重荷を負う人を招くジーザスの言葉にも触れ、その方につながる安らぎを語る。

神はへりくだる者の心の中に宿ってくださる方。

ARTHUR HOLLANDS|00:21:00,593–00:21:05,097
胸に手を当てて祈る取税人の挿絵
ルカの福音書18章9〜14節。人との比較ではなく、神のあわれみを求める祈りへ。

神殿から、ジーザスご自身へ

メッセージは、神と人が出会う場所としての神殿へと進む。建物があれば、それだけで神との交わりが保たれるわけではない。祈りのための場所であっても、人の誇りや利害が中心になれば、本来そこで大切にされるはずのものを見失ってしまう。先生の語る神殿の問題は、遠い昔の宗教家だけを批判して済ませられる話ではない。

ヨハネの福音書2章19〜22節では、神殿を三日でよみがえらせるというジーザスの言葉が、ご自身のからだについての言葉だったと説明されている。先生が見つめるのは、この死と復活だ。神と人を結ぶのは、建築物の立派さや人間の功績ではなく、私たちのために十字架にかかり、よみがえられたジーザスご自身なのだと語る。

さらに、パウロが私たちのからだを聖霊の宮と呼ぶ教えを重ねると、話はますます身近になる(コリント人への手紙第一6章19〜20節)。祈り終えて仕事に戻るときも、家族と食卓につくときも、自分の心やからだは、神との関係から切り離された場所ではない。建物を粗末にするという話ではなく、そこに集う私たち自身が、誰を迎え、誰と共に生きているのかという問いである。

神殿で人々に向き合うジーザスの挿絵
神殿の場面を描いた映像の挿絵。メッセージは、祈りの家からジーザスご自身の死と復活へと進む。

神の愛は、立派さと引き換えに得るものではない

心を砕かれるという言葉に、叱責や拒絶ばかりを思い浮かべる人もいるかもしれない。けれどアーサー先生は、その心を迎える神の愛の深さを、何度も語り直す。雅歌8章6〜7節の、死のように強く、大水にも消せず、財産を差し出しても買えない愛の詩を取り上げ、そこに神の愛を重ねて味わっていく。

その語りは、御子をお与えになるほど世を愛された神についての言葉へとつながる(ヨハネの福音書3章16節)。信仰の知識や立場、これまで積み重ねてきた働きは、神の愛を買うための代金ではない。自分を十分な人間に仕上げるまで待つのではなく、まず、その愛を必要としている今の心を向けてよい。

だからこそ、愛に応えることには、自分の向きを変えることも含まれる。先生は、神から離れた歩みを認め、立ち返ることを促す。できていない自分を責め続けるためではなく、もう一度この方と生きるために。今日の失敗を隠さず祈ることも、言い過ぎた相手に謝ることも、その小さな応答になり得る。

しかし、神の愛は大きな広い、誰一人として漏れない愛。

ARTHUR HOLLANDS|00:16:21,214–00:16:24,951

空を見上げた先に、自分の心が見えてくる

神が造られた天と地について語りながら、アーサー先生は詩篇19編をたどる。空も、太陽も、昼から夜へ続いていく営みも、神の御手のわざを告げている。私たちが自分の予定や悩みだけでいっぱいになっている間にも、世界は自分の力によらず支えられている。その広がりの中に、今、生きている自分がいる。

この詩篇は、自然の美しさを眺めるだけでは終わらない。魂を生き返らせ、心を喜ばせる主の教えへと進み、最後には、隠れた過ちを赦し、傲慢から守ってほしいという祈りになる。天を仰いで始まった言葉が、自分の口の言葉と心の思いを、神の前に置くところまで届いてくる。

御言葉に触れるとは、知識を一つ増やすだけでなく、普段は通り過ぎてしまう自分の言葉や態度に気づくことでもある。今朝の返事は、相手を大切にするものだっただろうか。忙しさを理由に、誰かの話を途中で切ってはいなかっただろうか。先生が続けて語る、水路のそばの木や、幹につながる枝の姿は、その気づきを自力の改善だけで終わらせず、主との交わりの中で実を結ぶ歩みへと招いている。

夜空の星々と地平線の光を描いた挿絵
詩篇19編を味わう場面の挿絵。昼から夜へ、造り主の御業を告げる空に目を向ける。

正しいつもりだった人が、兄弟として迎えられる

御言葉を知っているつもりでも、その言葉が指し示す方を見失うことがある。アーサー先生は、その例としてサウロ、すなわちパウロの回心を語る。キリストを信じる人々を迫害していた彼は、ダマスコへ向かう途中で天からの光に照らされ、ジーザスの呼びかけを受ける。目が見えなくなり、三日間を過ごしたというのが、使徒の働き9章の出来事だ。

先生がここで心を留めるのは、自分の正しさが揺さぶられたサウロだけではない。そのもとへ遣わされたアナニアの応答にも目を向ける。迫害する側にいた相手を、アナニアは「兄弟サウロ」と呼び、手を置く。サウロの目からうろこのようなものが落ち、再び見えるようになる。報復ではなく、兄弟として迎える行動に、先生はジーザスの愛の実践を見る。

間違いに気づくことは、自分の歩みを失うようで怖い。それでも、この物語では、その先に差し伸べられる手がある。自分がいつも正しいと守りを固めるよりも、語りかけを受け止め、人の助けを受け取ること。あるいは、変わろうとしている人を過去だけで決めつけずに迎えること。サウロとアナニアの出会いは、私たちの人間関係にも静かな問いを残す。

若いサウロに手を置くアナニアの挿絵
使徒の働き9章17〜18節。サウロの回心に続く、アナニアとの出会い。

懐かしい家をつくるのは、そこで受けた愛

結局教会をたらしめるのは建物じゃない。

ARTHUR HOLLANDS|00:38:57,302–00:39:01,139

ここから、先生の語りは旅の記憶へと移っていく。十字架を担いで歩く中で目にした、人のいなくなった旅館や家。草やつたに覆われた建物を見ながら、かつてそこにあったかもしれない食卓を想像する。家族が話し、笑い、ときには涙を流していたのだろう、と。残された建物の向こうに、そこで人が共に生きた時間を思い浮かべる。住む人のいない家について語るその言葉から、人がいることの温かさが伝わってくる。

先生はまた、サン=テグジュペリの『人間の土地』に触れ、住まいの大切さを、壁を所有することよりも、そこで心に蓄えられる優しい気持ちや記憶に見いだす言葉を紹介する。そして、その話が、先生自身の忘れられない記憶へとつながる。

子どもの頃、自分の出自を傷つける言葉を向けられた先生に、祖母が伝えてくれたのは、愛されているということだった。「あんたは愛されているんやで」。先生は、その言葉が今も心に残っていると振り返る。そして、当時は知らなかったジーザスの愛を、今ではその記憶の中にも見いだしていると語る。説明や理屈より先に、一人の子どもの心へ届いていた言葉があった。

23歳のとき、柔道の恩師に連れられて行った教会で、先生は再び、自分が神に愛されていることを聞いたという。そこで語られたのが、戸をたたき、開く人のもとに入り、共に食事をするジーザスの言葉だった(黙示録3章20節)。先生はそれを、心に迎えた方と生活を共にする招きとして受け止める。家に温かな記憶を持てない人にとっても、この招きは閉ざされていない。今日の心を、その方と共に生きる場所として開くことができる。

森を背景に祖母の愛の記憶を振り返るアーサー先生
アーサー先生が振り返る祖母の言葉。受け取った愛の記憶が、今の信仰の語りへとつながっている。

祈りは、強く見せるためではなく

心に迎えたジーザスと、どのように交わりを深めていくのか。アーサー先生が繰り返し勧めるのは、御言葉を口ずさみ、味わい、自分の祈りとして受け取ることだ。詩篇103編の、主をほめたたえ、その恵みを忘れないよう自分の魂に呼びかける言葉を、先生も日々味わっていると話す。

長く祈れたか、どれだけ多く読めたかという成果を急ぐより、一つの言葉の前で立ち止まってみる。今日、自分を支えてくれた恵みは何だっただろう。まだ人に話せていない思いを、神には打ち明けられるだろうか。御言葉を祈りにする時間は、立派な言葉で自分を飾る時間ではなく、今の心でこの方に向き合う時間になる。

そのことを、先生はゲッセマネで祈るジーザスの姿にも見る。ジーザスは苦しみを隠さず、杯が取り去られることを願いながら、ご自分の思いではなく父の御心がなされるよう祈られた(マタイの福音書26章36〜46節)。苦しさを口にすることと、神を信頼することは、必ずしも反対ではない。うまく言葉にならない祈りも、その方の前に置いてよい。

また先生は、将来の神の国への希望を語る一方で、今はなお病や死があることも語っている。祈れば悩みも病も直ちになくなるという約束に置き換えることはできない。まだ答えの見えない日にも、御言葉と祈りを通して、共におられる方を仰いで歩む。その交わりが、このメッセージの勧めである。

浸かるから染み込むんですよ。

ARTHUR HOLLANDS|01:10:42,238–01:10:44,707

あなたの日常を、愛が届く場所に

サウロの回心から時を経て書かれたガラテヤ人への手紙2章20節で、パウロは、キリストが自分のうちに生きておられるという信仰を語る。アーサー先生はこの言葉を、今を生きる私たちの祈りへと重ねていく。自分中心の思いとの葛藤がなくなったからではなく、その葛藤の中でも、聖霊の助けによってジーザスと生きる道が開かれているのだと。

イザヤ書66章22節の新しい天と新しい地への希望も、今の暮らしを置き去りにするためではない。完成を待ち望みながら、今日という日にこの方との交わりを深める。その歩みは、家庭や職場で、誰にどのような眼差しを向け、何のために手を動かすかという、ごく具体的なところに表れてくる。

どうぞ私の心を通してあなたが人々を愛してください。

ARTHUR HOLLANDS|01:11:53,142–01:11:55,878

話を途中で遮らずに聞く。受け取った親切に、きちんと感謝を伝える。自分の都合だけで決める前に、相手の事情を尋ねる。こうした小さな応答も、先生の祈りを私たちの暮らしで受け止める一歩になる。大きな働きができる日を待つだけでなく、すぐそばの人に、この心と手足を通して愛が届くよう願うことができる。

川を背景に心を通して人を愛する祈りを語るアーサー先生
神の住まいという主題は、今日出会う人にどのように寄り添うかという祈りへと結ばれる。

立派な建物を見るように、自分の人生を外から眺め、足りないところを数えてしまう日もある。それでも、神が目を留められるのは、今ここで御言葉に耳を傾けようとする心だ。まだ整いきらない思いを抱えたまま、ジーザスに心を開く。そこで始まる交わりを、今日出会う誰かとの時間へ持っていく。アーサー先生のメッセージは、私たちをその身近な一歩へと送り出している。