ひとりで抱え込むことが、自立なのだろうか

自分のことは、自分で何とかする。そうやって踏ん張ってきたのに、いつの間にか心が乾いている。弱さを見せまいとするほど、抱えるものは重くなる。そんなとき、自立とは本当に、誰の力も借りずに立つことなのかと、立ち止まって考えてみたくなります。本当の自立は『依存宣言』。この題が問いかけるのは、私たちは誰につながり、何によって生かされているのかということです。

今回のSTAY FAST CHURCHのメッセージは、涙とともに種を蒔き、喜びの収穫を待つ賛美から始まります。アーサー先生が願うのは、乾いた心に御言葉の種が蒔かれ、人が励まされ、神との関係の中で新しくされていくこと。すでに信仰を持つ人にも、潤いを必要としている心があります。

そこで語られるのが、詩篇1篇の、水路のそばに植わった木です。昼も夜も主の教えを口ずさみ、時が来ると実を結ぶ。その姿に、ぶどうの木につながる枝が重なります。枝は、幹から離れることで一人前になるわけではありません。命の源につながっているからこそ、枝として実を結べるのです。

実とは何か。アーサー先生は、愛、喜び、平安、寛容、親切といったものへ目を向けます。自分の強さを証明するために力むときとは違う、人との関わりの中に育っていく実。その始まりにあるのが、自分を生かす方の言葉を受け取り、その方にとどまることです。

神に耕されながら耕していく

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE
ぶどう畑を背景に、ジーザスにつながって生きることを語るアーサー先生。
ぶどう畑を背景に、ジーザスにつながって生きることを語るアーサー先生。

涙を知っている方が、そばにいる

けれども、神につながって生きることは、悲しみを感じなくなることではありません。今回の中心にある詩篇126篇には、種の入った袋を抱え、泣きながら出て行く人が登場します。涙と種まきが同じ場面にある。涙が乾くのを待つだけでなく、涙のある今日も神と歩めるのかもしれない。そんな希望が、その姿にあります。

アーサー先生は「この悲しみというのは実は無駄じゃないんだよ」と語り、ジーザス自身の涙を見つめます。愛するラザロが亡くなったとき、ジーザスは涙を流されました。十字架を前にしたゲッセマネでは、苦しみの中で父に祈られました。悲しみを知らない場所から励ます方ではなく、その痛みのただ中に身を置かれた方です。

その歩みの中心に、十字架の死と復活があります。一粒の麦が地に落ちて死に、多くの実を結ぶように、ジーザスはご自身を差し出された。アーサー先生は、涙から喜びへという詩篇の言葉を、この出来事と重ねます。希望の根拠を、自分がどこまで気丈に振る舞えるかに置かなくてよいのです。

詩篇30篇の、夕暮れの涙から朝明けの喜びへという言葉、そして黙示録で語られる、夜も死もなくなる世界への希望。メッセージは、悲しみだけで終わらない先へ視線を向けます。今すぐ笑顔になろうと自分を急かすより、涙を知る方の前で、今日の悲しみを隠さずにいる。頼るという営みは、そんな祈りからも始まります。

この悲しみというのは実は無駄じゃないんだよ。

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE
ゲッセマネで祈るジーザス。メッセージ映像中の聖書場面イメージ。
ゲッセマネで祈るジーザス。メッセージ映像中の聖書場面イメージ。

隠れてしまう心を、もう一度耕してもらう

なぜ私たちは、頼ることよりも、自分を守り切ることに力を使ってしまうのでしょう。アーサー先生は、人間の始まりにさかのぼります。創世記の園に置かれた人には、耕す働きが与えられていました。その姿を、神に耕されながら、自分も耕していく関係として読み解きます。人が働くことと、神に生かされることは、初めから結びついていたのです。

ところが、アダムとエバは神の言葉から離れ、自分を覆い、隠れ、責任を相手に向けるようになります。アーサー先生は、そこに幹を離れた枝の姿を重ねます。失敗を認めたくなくて言い訳を探し、本当の自分を見られるのが怖くなる。古い物語に触れているはずなのに、私たちの日常に近いところが見えてきます。

それでも、神は人との関係を回復する働きをやめません。アーサー先生は、神殿から教会へと続く話も、神と人が結ばれ、その恵みを地上に表すという視点で語ります。枯れた枝をつなぎ直すというイメージでも、ジーザスが来てくださった意味を語ります。妬みや争いに傾いていたところに、愛や柔和、自制の実が育つ。何もなかったことにして自分を取り繕うのでなく、今の心を差し出して、新しくされていく道です。

種まきのたとえでは、同じ種でも、道端、岩地、茨の中、良い地で、その後が違います。アーサー先生が問いかけるのは、御言葉をどんな心で受け止めているかです。自分の考えだけを通そうとしていないか。欲や自分の都合で、言葉を聞き流していないか。幼子のように素直に聞くところから、耕される時間を取り戻していきます。

種蒔きのたとえを語るジーザス。メッセージ映像中の聖書場面イメージ。
種蒔きのたとえを語るジーザス。メッセージ映像中の聖書場面イメージ。

御言葉は、誰かと向き合う一歩になる

御言葉を受け取ることは、知識を増やすところにとどまりません。アーサー先生は、聖書の言葉に詳しいことと、神を知ることを区別します。その方を受け入れ、味わい、関わりの中に生きる。信仰を持ったことは終点ではなく、耳を傾けながら歩み始める出発点なのです。

ここで紹介されるのが、新約聖書を読み始めた人の証しです。アーサー先生の話では、その人は求めていた答えが聖書にあると受け止め、音信不通だった母親に会いに行きました。そして話を交わし、関係が回復したといいます。御言葉との出会いが、心の中の感動だけで終わらず、実際に誰かと向き合う一歩になった出来事です。

この証しから、私たちも自分の身近な関係を振り返れます。相手を変えるための言葉ばかり探して、自分が聞くことを忘れていないか。正しさを説明することに懸命で、目の前の人を見失っていないか。語れる言葉の多さよりも、その言葉によって自分の関わり方がどう変えられていくかが問われます。

教会への厳しい問いも、この点につながっています。終末の議論に熱心でも、十字架と復活の福音を伝え、人を愛する歩みから離れてはならない。戦争を語るとき、人が亡くなる悲しみを忘れてはならない。アーサー先生は自分自身への反省も込め、「すべての人に寄り添う」と語ります。罪をごまかさず、それでも人を愛する知恵を、御言葉と聖霊に求めているのです。

すべての人に寄り添う。

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE
富士山十字架行進で、アーサー先生と共に歩くユウダイさん。
富士山十字架行進で、アーサー先生と共に歩くユウダイさん。

与えられたものから、与えてくださった方へ

頼りにしているものは、自分の能力だけとは限りません。大切な人、手にした喜び、ようやくかなった願い。その存在がかけがえのないものであるほど、それなしでは立てないと感じることもあります。メッセージはここで、アブラハムとイサクの出来事に目を向けます。

アーサー先生は、与えられた息子を大切にするあまり、与えてくださった神への依存を忘れてしまうという視点から、この出来事を語ります。祝福を受け取ったのに、その祝福の源を見失う。信仰の話をしているつもりでも、実際の心は何に支えられているのか。その問いは、アブラハムだけに向けられたものではありません。

モリヤの山へ向かう道で、イサクは捧げる羊について尋ねます。アブラハムは神が備えてくださるという信頼を口にし、最後にはイサクの代わりとなる羊が与えられます。アーサー先生が見つめるのは、答えの見えない中で、なお神に向き直っていく姿です。大切なものを自分の手だけで支え切ろうとする心が、与える方への信頼へと問い直されます。

この場面を私たちの日常に引き寄せるなら、大切な人を自分の安心のすべてにしていないか、という問いにもなります。相手に何もかも満たしてもらおうとする代わりに、神の前で自分の不安を打ち明ける。依存宣言とは、自分の責任を捨てる合図ではなく、命の源を見失わずに、大切な人や与えられた働きと向き合っていくための告白なのです。

アブラハムの信頼について、手を添えて語るアーサー先生。
アブラハムの信頼について、手を添えて語るアーサー先生。

自分の喜びが、誰かの帰りを願う祈りへ

詩篇126篇を最初から読み進めると、涙と種まきの言葉には、帰ってきた人々の喜びが先立っていることがわかります。アーサー先生は、捕らわれていた民が再び自分たちの都へ戻る出来事を背景に、この歌をたどります。夢のような回復に口は笑いで満たされ、周囲の人々も、主がなさったことに驚きます。

注目したいのは、その喜びの語り方です。自分たちがどれほど立派だったかではなく、主が自分たちのために大いなることをしてくださった。その恵みを受け止めて喜ぶのです。自分の力だけで生きてきたという物語から、生かされ、連れ戻されたことを感謝する物語へ。ここにも、依存宣言につながる姿があります。

しかも、その歌は満足のうちに閉じません。4節では、ネゲブの流れのような回復を求めて祈ります。アーサー先生は、まだ帰って来ていない人々のための祈りが、ここにあると読み解きます。自分が救われたから、それでよいのではない。共に喜びたい人が、まだいる。受け取った喜びが、その人のために願う心を開いていきます。

ネゲブの流れを説明しながら、アーサー先生は、乾いた地に雨が降り、川が生まれ、緑が芽吹く光景を重ねます。いま目に見えている乾きだけで、これからを決めてしまわない。そのような希望を持って、なお回復を願うのです。祈りの中で思い浮かぶ一人は誰でしょう。自分の安心のためだけだった祈りが、その人と共に生きる喜びを願う祈りへ、少しずつ広がっていきます。

涙と共に種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE
乾いた地に流れが戻るように。メッセージ映像中のネゲブの流れのイメージ。
乾いた地に流れが戻るように。メッセージ映像中のネゲブの流れのイメージ。

涙を拭いてからでなく、涙とともに種を蒔く

戻れたことを喜んでも、目の前の土地には荒れた現実が残っています。アーサー先生は、神殿も耕す場所も傷んだところに帰って来た人々を描きます。そこで、あとは神にすべてしてもらえばよい、と座り込むのではありません。神を信頼しながら、自分たちもその場所に向き合い、涙とともに希望を持って種を蒔いていくのです。

「涙と共に種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。」その言葉には、頼ることと働くことが一緒にあります。収穫を自分だけで生み出そうとはしない。それでも、今日の種まきから手を引かない。依存宣言は、自分には何もできないと人生を閉じることではなく、自分だけではできないから、この方と共に歩き出すことなのです。

種を蒔く場所は、遠くにだけあるわけではありません。アーサー先生は、心、家庭、職場、学校へと目を向け、御言葉を心にとどめ、福音の種を人々の心に蒔くよう招きます。たとえば、一人のために祈ること。相手の話を最後まで聴くこと。ジーザスに支えられたことを、自分の言葉で伝えること。今日できる小さな行動から、この招きに応えられます。

ただし、実を結ぶことは、救われる資格を得るための成績づくりではありません。結びの祈りでアーサー先生は、救いは行いによるのではなく、一方的な神の恵み、贈り物だと語ります。その愛を受け取り、自分の眼差し、心、手足を通して人に仕えていく。初めて信じようとする人にも、長く信じてきた人にも、今日あらためて心を開く道があります。ひとりで全部を抱える生き方から、ジーザスにつながり、共に耕す生き方へ。涙のある今日も、その一歩を始めてよいのです。

一方的なあなたの恩寵、恵みによって救われます。

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE
麦畑を背景に、神を信頼して種を蒔く歩みへ招くアーサー先生。
麦畑を背景に、神を信頼して種を蒔く歩みへ招くアーサー先生。