人によく見られたくて、本音を隠す。謝るより先に、言い訳が出る。大事な人を守るつもりだったのに、いざとなると自分を守ってしまう。聖書の人間たちを読むと、目をそらしたくなるほど、こちらの姿が映ることがあります。
アーサー先生は、人のずるさや弱さを率直に見つめながら、それでも見捨てずに近づいてくださる主を語ります。父と兄を欺いたヤコブにも、恐れていた弟子たちにも、そして私たちにもかかわる、赦しの恵みと、主とともに生きる約束をたどります。
祈れない日にも、隠さずに
ダビデは、喜びも悲しみも、自分の罪への嘆きも、世の不条理への訴えも、主の前に差し出しました。アーサー先生は、その飾らない心が、詩篇を読む私たちと響き合うと語ります。
ところが、熱心に聖書を学び、実践しようとして、かえって疲れ切ってしまうことがあります。祈ればいいと勧められても、その祈りが出てこない。先生は、誠実に生きようとする人の行き詰まりにも目を向けます。
信仰の言葉をたくさん知ることと、その言葉に支えられて生きること。その間には、葛藤を抱えながら歩く時間があります。今うまくいかない自分を取り繕うより、その息切れごと主に向けてみる。それも、聖書の言葉に耳を傾ける一歩です。

二十三歳の海辺から、人の温かさへ
二十三歳のアーサー先生は、全米チャンピオンやオリンピックを目指し、格闘技に打ち込んでいました。一生懸命に取り組むよさも、その中で知る自分の弱さもあった。それでも、自分は何のために生きているのかという問いが生まれます。
ハンティントンビーチで、波の音を聞き、水平線に沈む太陽を見ながら、先生は自分に向き合いました。「俺の人生って、これでいいのかな」。その頃はまだ、そこで起きていることを十分に言葉にはできませんでした。
その後、柔道の恩師を通して訪ねた教会で出会った年配の人たちは、ゆとりをもって先生に愛情を注いでくれました。その人たちのうちにいるジーザスを知りたいと願った先生は、自分の罪を赦すためにジーザスが十字架で死に、よみがえられたことを聞き、心に迎え、その日に洗礼を受けました。
人の中に表れる喜びや愛情を通して、聞いていた言葉が自分の人生と結びついていく。先生の歩みには、そんな出会いがありました。

俺の人生って、これでいいのかな
ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE
処刑の場で差し出された、今日の約束
ジーザスとともに十字架につけられた犯罪人の一人は、自分たちが刑を受ける理由を認め、罪のないジーザスに救いを求めます。自分を思い出してほしいという願いに、返されたのは、この言葉でした。
「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
ルカの福音書 23:43(メッセージ内の朗読より抜粋)
先生が心を留めるのは、「今日」と「ともに」という言葉です。パラダイスは、主がともにいてくださるところ。死の先にある希望を語りながら、その交わりは今ここから始まると伝えます。この約束は、苦しみのただ中にいる人へ語られました。
さらに先生は、自分を傷つける者たちの赦しを祈るジーザスにも目を向けます。人のずるさや残酷さを知ったうえで差し出される愛。その愛が、自分の罪を認め、救いを求める人を迎えるのです。

正しいつもりの自分が、問い直される
パウロがパラダイスへ引き上げられた体験に話が進むと、先生は、特別な体験を自慢する危うさにも触れます。かつてのパウロは、自分は正しいと信じて人を迫害していました。ジーザスとの出会いによって、その確信が問い直されます。
アーサー先生も、日本での働きに悩み、批判を受けた時、西国分寺の小さな森に向かいました。朝四時半頃、懐中電灯を手に出かけ、ひざまずいて祈る。そこで聖霊に触れられて涙を流し、自分がまず悔い改めさせられたと語ります。自分の不完全さを認め、主のほうへ向き直る祈りでもありました。
新宿アルタ前で友人を待っていた時には、行き交う人たちを前に、自分を用いてほしいと祈りました。そこから路上でジーザスの救いを伝える働きへ踏み出した経験も語られます。人の声に揺さぶられながら、ジーザスに向き合い、自分の歩く方向を確かめていく。その姿勢が、先生自身の経験を通して伝わってきます。
当然、俺も完全完璧ではなく、不完全な者同士として接していました。
ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE
あの時には、分からなかった
弱さを語るパウロに重ねて、アーサー先生は自ら首の骨を折った経験を振り返ります。試合に勝てるように、けがをしないように祈っていた中で起きた出来事でした。当時は、それをどう受け止めればよいのか分からなかったと、率直に話します。
手術台の上で決めたのは、車椅子に乗ることになってもジーザスを伝える、ということでした。先生は、将来のことは自分にも分からないと口にしながら、その経験が今の働きにつながる大きな転機だったと振り返ります。
経験した瞬間には、見えないことがあります。今の苦しみにまだ意味を見いだせないなら、急いで結論を出さなくてもよいのでしょう。先生の歩みから受け取りたいのは、答えを持てない時にも主に向き合い、自分にできる応答を差し出していく姿です。

車椅子に乗っても、あなたのことを伝えるという献身的な決意をしたわけですよね。
ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE
恐れていた弟子たちのところへ
メッセージは、パラダイスにあるいのちの木から、創世記のエデンの園へと視野を広げます。人は土から形造られ、創造主からいのちの息を受けた存在。主とともに生きる場所に置かれながら、禁じられた実を取り、愛されているという立ち位置を見失っていきました。
それでも、人を愛し、見捨てないことが聖書全体を貫いていると先生は語ります。その愛が具体的な姿を取るのが、復活したジーザスと弟子たちの再会です。弟子たちは師を見捨て、自分たちも死ぬのではないかと恐れていました。その部屋にジーザスが来て、平安を告げ、傷を見せられます(ヨハネの福音書 20:19〜20の場面の要旨)。
先生は、その傷を、弟子たちの罪を贖うための傷として説明します。贖うとは、彼らの罪を引き受け、救うこと。関係が壊れたところへ、傷を負った方が近づいてくるのです。
さらに、ヨハネの黙示録に描かれる新しい都、いのちの水の川と木へと話は進みます。失われた交わりが回復され、主とともに生きる世界が待っている。今の私たちを訪ねる平安は、その将来への希望ともつながっています。

石の枕のそばで、見捨てないと告げられる
この大きな流れの終盤で、先生はヤコブに目を向けます。兄に与えられるはずの祝福を、父を欺いて受け取った人です。兄に命を狙われ、逃げる旅の途中、石を枕に一夜を過ごします。
夢の中には天と地を結ぶ梯子があり、ヤコブの傍らに主が立っておられました。主は、どこへ行ってもともにいると告げ、こう約束されます。
「わたしはあなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
創世記 28:15(メッセージ内の朗読より抜粋)
先生は、欺いた本人の傍らに主が立っていることに心を留めます。目覚めたヤコブは、主がここにおられたのに、自分は知らなかったと気づきます。
自分の非を認める時、もう主に顔向けできないと感じることがあります。それでも、正直になるための支えとして、見捨てないという約束を受け取ってよい。ヤコブの姿は、そう促してくれるのではないでしょうか。

今日、一つだけ本当のことを
メッセージの結びは、自分の弱さを認め、ジーザスに心を開く祈りです。まだ分からないことがあっても、今の自分のままでジーザスに向き合うことはできます。
今の私は、何を隠そうとしているのだろう。少し静まり、浮かんだ気持ちを一つ、紙に書いてみませんか。怖さ、悔しさ、言い訳を続けていること。その一文を主に向けて読み、助けを求めてみてください。
そして、暮らしの中でも一つだけ誠実にしてみる。自分の非を認める。できないことを伝え、助けを求める。いま必要な一歩を選びましょう。
ずるさも弱さも知りながら、見捨てないと語る方と、今日を生きる。祈りの最後に先生が願うのは、受けた恵みが私たちの生き方に表れることです。私たちも、相手の弱さをすぐに責めず、耳を傾けるところから始めたいのです。
