マイクを手に語りかけるアーサー先生
愛するなら、今日。身近な関係の中で、私自身も育てられていきます。

大切な人に、変わってほしい。もっとわかってほしい。そう願って伝えた言葉なのに、会話の後には、なぜか距離が残ってしまう。相手を思っているはずの自分も、いつの間にか苛立っている。そんな経験はないでしょうか。

今回のFRIDAY NIGHTでアーサー先生が語る、耕すという営みは、その足元を照らします。学校で出会った生徒、育ててきた子どもたち、家で水をあげた観葉植物。身近な話と聖書の言葉を行き来しながら、誰かを育てる私自身も、ジーザスに育てられる存在なのだと問いかけるメッセージです。

1.変わってほしい人の前に、問われている私

人の態度が変われば、状況がよくなれば。そう考えていると、自分の今日も、相手の変化待ちになってしまいます。アーサー先生は人生の意味を語る中で、問いの向きを変えます。

「人生があなたにどう生きるんだと問うてる」

何が与えられるかを待つだけでなく、与えられた今日をどう生きるのか。先生が語る自由は、あらゆる事情から解放されることではなく、その事情の中で自分のあり方を選ぶことです。

もちろん、他人の言動まで自分の責任にするという意味ではありません。それでも、相手を責める言葉を重ねるのか、一度立ち止まって自分の心を見つめるのか。選び直せることはあります。人を育てる話は、まず、その自分への問いから始まります。

人生をどう生きるか問いかけるアーサー先生
「人生があなたにどう生きるんだと問うてる」。与えられた今日への問い。

2.人は、耕し、守るために置かれた

その原点として、アーサー先生は創世記を開きます。創世記 2:7では、神が人を形づくり、いのちの息を吹き込まれる場面を読み、創世記 2:15では、人がエデンの園を耕し、守るために置かれたことを確かめます。

人は、自分だけで生きている存在ではありません。いのちを与えられ、そのいのちをもって関わる場所を託されています。先生は、この耕すという働きを、家庭を育むことや、子どもを育てること、教育へと広げていきます。

ただし、自分が一方的に相手を造り変えるのではありません。自分も神に耕されながら、人と関わっていくのです。教える立場になっても、学ぶ必要がなくなるわけではない。支える側にも、支えが要る。その順序を忘れないことが、相手を自分の思い通りにしようとする焦りを見直す入口になります。

3.赤いスーツの牧師と、卒業してからも続く関係

玉川学園に約30年にわたって招かれてきた、とアーサー先生は振り返ります。初めの頃は年に七回、毎回五百人ほどを前に語ったそうです。赤や白、時には紫のスーツ。その姿で、生徒たちにまっすぐ言葉を届けようとしていました。

先生が叱った生徒が、後に牧師になっていた。高校生の頃から付き合っていた二人が、卒業後、結婚式をお願いしたいと声をかけてくる。先生は、そうした関わりの続きも語ります。

「種まくのは簡単だけどその後のフォローも大変ですよね。」

一度、よい話をして終わりではない。その人の人生は、その先も続いていきます。講話の場で何人が反応したかだけでは見えない、長い時間の中で育つ関係があります。種を蒔くことの重みは、華やかな瞬間だけでなく、話を聞き、相談を受け、その後にも関わるところにあるのでしょう。

約30年前の玉川学園で生徒たちに語るアーサー先生の写真
玉川学園での出会いから、卒業後も続いていく関係へ。

4.水をあげすぎた鉢と、子どもに教えられる親

人を育てる難しさは、家の中にもあります。アーサー先生は、観葉植物に水をあげるよう頼まれながら、どれくらい必要なのかわからなかった話をします。水をあげすぎて、枯れてしまったものもあったそうです。

「そこの微妙なさじ加減ってやっぱり付き合ってねえとわかんないんだよね。」

その話の間には、子どもたちへの思いも語られます。自分は完璧ではない。傷つけた時には謝る。教える側でありながら、先生自身も育てられてきたのです。

「結局子供によって育てられるアーサー・ホーランドもいるわけですよね。」

たくさん与えればよいとは限らない。熱心に言えば伝わるとも限らない。相手を知るには、関わり続ける時間が必要です。そして、間違えた時に謝れることも、その関わりの一部です。大人としての立場を守るより、目の前の人を大切にする。家族を耕すという言葉が、急に私たちの食卓や会話に近づいてきます。

観葉植物に水をあげた経験を語るアーサー先生
与える量だけではなく、相手を知り、関わり続けること。

5.試練に揺れる自分も、耕される途中にいる

ぶどうの木の話になると、アーサー先生は、実を結ぶ枝にも刈り込みがあることを人生に重ねます。自分の過ちから招いた試練もあれば、人の不条理によって傷つけられる試練もある。その中で、心の価値観や、何を頼りにしているかが見えてくると語ります。

ここで求められているのは、痛みを痛くないことにする強がりではありません。先生自身、試練を喜ぶとはどういうことかと問い、冗談を交えながら、弱い自分のままで神を仰ぐことへ話を進めます。

「俺たちは弱い弱いけど神は強くしてくださる。」

傷つけた人の行為を正当化したり、つらい状況がすぐ解決すると約束したりする話ではありません。思い通りにならない今も、ジーザスとの関係の中で自分を見つめ直していく。人を支える側にいる私も、いつも強く整っている必要はないのです。

動画に挿入された、空を仰ぐヨブのイメージ
試練のただ中で、神を仰ぐヨブのイメージ。

6.知識は、身近な人への態度になっているか

では、耕される人生には、何が実るのでしょうか。先生が挙げるのは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。目立つ実績や肩書きではなく、ジーザスにつながる生き方に表れる品格です。

「俺たちはどういう実をもたらしてるんだ」

聖書の知識を持っていることと、その言葉が人との関係に表れることは、同じではありません。正しい説明ができても、身近な人に冷たく接してしまうことはあります。遠くの大きな働きを語りながら、家族の思いを聞きそびれることもあるでしょう。

アーサー先生は、家庭で愛することへの厳しい問いを、聞き手だけでなく、ご自身にも向けています。私たちも、よく知っている人に対してこそ、どう話しているかを振り返りたいのです。愛や親切は、知識の試験ではなく、今日の返事や、相手に向ける時間の中で問われています。

先生が繰り返すのは、自分の力だけでよい実を作り出すことではなく、ぶどうの木であるジーザスにとどまることです。十字架と復活に示された愛を受け、聖霊によって生かされる。そのつながりが、暮らしの中の愛や親切を支えます。

7.蒔いた人が、すべてを刈り取らなくてもいい

メッセージの後半、アーサー先生は会場に呼びかけ、ヨハネの福音書 4:35-37を一緒に読むよう促します。目を上げて畑を見ること。そして、蒔く者と刈る者が、ともに喜ぶこと。長く語られてきた耕すという働きが、ここで収穫の喜びにつながります。

自分が蒔いた種の実りを、必ず自分の手で確かめなければならないわけではありません。自分より前に関わった人もいれば、この先、その人を支える人もいます。自分ひとりの成果にしようとすると、相手の成長まで、自分の評価に結びつけてしまいます。

そして、この実りは自分の内面だけに閉じません。先生は、私たちの生き方を通して福音の種が周囲に蒔かれ、人々へよい知らせが届いていくことを語っています。

続いて朗読されるイザヤ書 32:15には、上から霊が注がれ、荒野が果樹園になる情景があります。希望の根拠は、私たちの熱意や工夫だけではなく、神の働きにあるのです。

だからこそ、見える成果だけで、今日の関わりを切り捨てなくてよいのでしょう。相手の歩みを自分だけで抱えず、神に委ねながら、今できる関わりを続けていきたいのです。

会場でヨハネの福音書をともに読む場面
蒔く者と刈る者が、ともに喜ぶために。

8.人に渡す前に、自分が御言葉を味わう

最後に、話は種を受け取る心へと戻ります。道端、岩地、茨の中、よい地。同じように言葉を聞いていても、どのように受け取っているかは違います。アーサー先生は、人に御言葉を届ける前に、自分の心にその種を受け取ることを語ります。

「頭で勉強するんじゃない、味わうんですよ。」

誰かに聞かせたい言葉を、今日は自分に向けて読んでみる。相手を変えてほしいという願いと一緒に、自分の頑なさもジーザスの前に差し出す。それは、立派な人になってから始めることではありません。

返事を急がずに話を聞く。傷つけたことを認める。必要なところで謝る。小さな行動の前に、まず自分の心へ、御言葉が届く時間を持ちたいのです。誰かを育てようとする私にも、水が要る。耕されながら人と関わる歩みは、遠い場所ではなく、今日の身近な関係から始まります。

動画に挿入された、人々に教えるイエスのイメージ
人に渡す前に、まず自分が御言葉を受け取る。