人からどう見られているかが気になって、自分のよさが見えなくなる。そんな時、自分を見つめるもう一つのまなざしがあることを、思い出せたらどうでしょう。

北本福音キリスト教会で行われた「本田 弘慈先生記念礼拝」。アーサー先生は、読み込んだ師の本や、一緒に旅をし、食卓を囲んだ日々を振り返りました。その思い出の中心にあるのは、十字架の愛です。師を生かし、ご自身を動かしてきた愛が、今、目の前の一人にも向けられている。そのことを、ユーモアとともにまっすぐ語ります。

誰がなんと言おうと、あなたは愛されている。この言葉を、自分だけは別だと遠ざけずに聞くところから、今日の歩みを始めてみませんか。

北本福音キリスト教会で語るアーサー・ホーランド
人の評価を超えて、自分に向けられた愛を受け取る。

人の評価だけに、自分を預けない

アーサー先生は、毎朝、鏡に映った自分を褒めるといいます。誰かに褒めてもらうのを待つのではなく、自分で自分に声をかける。そのユーモラスな話の根にあるのは、見た目への自信ではありません。自分を造り、いのちを与え、高価で尊い存在として見てくださる神への信頼です。

背が高いか低いか。痩せているか太っているか。勉強ができるかどうか。先生は、そうした違いを挙げながら、神の愛は条件をつけた愛ではないと語ります。何かを達成したから、期待に応えたから、ようやく受け取れるものではないのです。

周りが何と言おうと、あなたは愛されてるんです。

アーサー・ホーランド/本編 00:30:57

誰かに言われたひと言が、自分のすべてを言い当てているように感じることがあります。けれど、その言葉だけが、私たちを見るまなざしのすべてではありません。自分を造られた方は、どのように見てくださっているのか。先生は、そこへ目を向けるように勧めます。

無理に自信をつくるより先に、愛されていることを受け取る。人と比べて勝っているところを探さなくても、自分を大切にしてよい理由が、ここにあります。

両手を広げ「あなたは愛されてるんです」と語るアーサー先生
「周りが何と言おうと、あなたは愛されてるんです。」

十字架は、あなたに向けられた愛のしるし

その愛は、気休めの励ましではありません。ヨハネの福音書 3:16が伝えるのは、神が御子をお与えになるほどに世を愛されたということです。アーサー先生は、その世の中に、今ここで聞いているあなたも含まれていると語ります。

私たちが十分に神を愛したから、愛が返ってきたのではありません。まだ罪人であった私たちのために、ジーザスは十字架で死に、よみがえってくださいました。自分の中に愛が足りないと気づく時にも、その自分を愛してくださる方がおられる。先生はそこに、十字架の意味を見つめています。

十字架の愛はあなたのためにあります。

アーサー・ホーランド/本編 00:51:17

十字架は、教会に飾られた形で終わるものではありません。罪の赦しと救い、永遠のいのちへと私たちを向けるしるしです。自分がどれほど立派かを確かめるためではなく、ジーザスが自分のために何をしてくださったかを知るために、見つめるものなのです。

愛されるにふさわしい自分を完成させてから、近づくのではない。赦しを必要とする自分のまま、この愛に心を開く。その順番を、取り違えずにいたいと思います。

表紙を直して、今も読み続ける一冊

アーサー先生が礼拝で紹介したのは、本田弘慈先生の著書『十字架の奥義』でした。一日一章、三十一章からなる本です。傷んだ本を奥様が修理に出し、表紙を新しくしてくれたそうです。それでも、中のページはボロボロだといいます。

僕にとってはもう本田弘慈の教科書になったんですよね。

アーサー・ホーランド/本編 00:02:18

師の語りは、簡潔で、まっすぐでした。その表現の力はどこから来るのか。秘訣を知りたくて読み進めた本は、アーサー先生にとって、師の伝道の心を学ぶ一冊になりました。

読み上げられた序文には、十字架の奥義を十分に知っているから書いたのではなく、自分自身が十字架に触れて変えられ、新しいいのちの生活へ入れられたから書いた、という本田先生の思いが記されていました。

すべてを説明できるから伝えるのではなく、自分を変え、生かしているものだから伝えたい。一冊の本から伝わってくるのは、その切実さです。師の言葉を学びながら、師が見つめていた十字架に、自分も立ち返っていく。ページが傷んでも手元に置き続ける本には、そんな出会いがありました。

本田弘慈先生の著書「十字架の奥義」の表紙
読み込まれた一冊が、師の見つめていた十字架へと導く。

カバンを持ち、食卓を囲み、生き方を学ぶ

学びの場所は、本の中だけではありません。本田先生のカバンを持ち、旅に同行する。御茶ノ水の聖会で、祈りと聖霊の大切さを熱く語る姿をそばで見る。アーサー先生は、共に過ごす中で教えられた日々を振り返ります。

本田先生は、集まってくる若者を大切にし、その熱い思いを応援してくれたといいます。一緒に天ぷらを食べながらも、話題はジーザスやリバイバルへ向かいました。講壇で語る時だけでなく、同じ食卓につく時間にも、師が大切にしているものは伝わっていたのです。

本田先生がいなければ、あのフライデーナイトで奉仕するということもなかったわけですよね。

アーサー・ホーランド/本編 00:46:49

アーサー先生は、御茶ノ水で三十年続けているフライデーナイトの奉仕を、師との出会いに結びつけて語りました。忠実に種をまき、水を注ぐ姿を見たことが、毎月の歩みにつながっています。

師の地上の生涯は終わっても、そばで受け取ったものは、今の生き方に残っています。私たちにも、話してくれた内容以上に、自分をどう迎え、どう接してくれたかを覚えている人がいるのではないでしょうか。その人から受け取ったものを、今度は自分の関わり方にしていくことができます。

映像で紹介された本田弘慈先生の写真
共に歩き、共に食卓を囲んだ日々から受け継がれたもの。

信号が変わるまでの四十五秒に

受け継いだ情熱を、アーサー先生はご自身の歩みの中で表してきました。その一つが、新宿のアルタ前での路傍伝道です。竹下通りで買った六千円の白いスーツに、赤いネクタイとチーフ。ご自身をカーネルサンダースになぞらえながら、街に立った日々を語ります。

信号を待っている人たちに向けて、四十五秒のメッセージをする。青になれば、人は歩き始めます。その短い時間にも、愛されていることを伝える。その働きを、十年間続けたといいます。

人に届くための工夫はしながら、伝える中心は変えない。十字架に示された愛を、まだ知らない人にも届けたい。その願いが、街へ出ていく姿に表れています。

アーサー先生は、聖霊の働きを、感動する力、行動する力、伝道する力として語りました。しなければならないという義務だけでなく、受けた愛を伝えずにはいられなくなる。その喜びを、師からも学んできたのです。

自分が受け取ったものを、心の中だけにしまっておかない。相手に届く言葉や接し方を考える。私たちに与えられている出会いの中にも、その愛を伝える機会があります。

新宿アルタ前で赤いスーツを着て路傍伝道するアーサー先生の写真
新宿アルタ前での路傍伝道。目の前の人に届く言葉を探して。

あなたも、隣にいる人も、大切な一人

神に大切にされている自分を知ることは、自分のことだけで終わりません。自分を神の傑作として見るなら、周りの人も同じように見るようになると、アーサー先生は語ります。自分を愛することと、隣の人を愛することは、つながっているのです。

十字架の縦の関係を、神と自分との関係に。横の関係を、人と人との関係に。先生は、そのように十字架の形を示しながら、受けた愛が、人との関わりに表れることを語りました。

教会っていうのは喜怒哀楽が解放される場所だからね。

アーサー・ホーランド/本編 00:21:31

それは、決められた型に自分を押し込める場所ではないということです。先生はまた、教会を病院にも重ね、助けを必要とする魂をもてなす場所として語ります。建物だけでなく、そこにいる一人一人が、どのような心で人を迎えるかが大切なのです。

正しい言葉を伝えることに夢中で、目の前の人の気持ちを置き去りにしていないでしょうか。自分にも向けられている愛を思い起こしながら、相手の話に耳を傾ける。立派に見せなくても共にいられる関わりを、身近なところから育てていきたいと思います。

一粒の麦についての字幕と北本福音キリスト教会の礼拝風景
受け取った愛を、自分の歩みと人との関わりへ。

愛せない自分も、祈りの中で変えられる

そう語るアーサー先生も、人を見る目を失いかけたことがありました。以前、洗礼式の奉仕で、贈られた銀の時計がなくなった時のことです。誰かが持ち去ったのではないかと想像し、周りの人を疑うようになってしまったといいます。

その中で、時計への執着を委ねるように促されたと、先生は語ります。時計には、永遠の愛を伝える聖書の言葉が刻まれていました。それを手にした人が、その言葉を通してジーザスに出会えるように。相手が裁かれることを願う祈りから、相手にも愛が届くことを願う祈りへと、向きが変わっていきました。

祈り始めたら憎しみが消えんだよね。

アーサー・ホーランド/本編 00:38:26

そう祈ることには悔しさもあったと認めながら、先生は、ご自身の内に起きた変化を話されました。初めから何もかも受け入れられる、強い人だったという話ではありません。

愛を語る自分も、愛を必要としている一人です。自分の力だけで優しい人になろうとするのではなく、自分も赦されていることを思い起こし、祈りに戻る。人を愛する歩みは、そのようにジーザスに教えられながら続いていくのでしょう。

今日を、愛されている自分として生きる

アーサー先生は、くびきで結ばれた牛が、そばにいる牛から学ぶ姿に、ご自身が本田先生のそばで学んだ日々を重ねます。遠くから理想の姿を眺めるのではなく、つながって歩く中で育てられる。そのことを、ジーザスとの関係にも重ねて語りました。

ぶどうの枝が実を結ぶためには、幹にとどまることが大切です。愛を届けたいと願う私たち自身も、御言葉と聖霊によって養われる必要があります。実を結ばなければと焦る時ほど、誰につながっているのかを思い出したいのです。

メッセージの終わりには、初めて信じる人だけでなく、信じてきたけれど初めの愛から離れていたと感じる人にも、立ち返る招きがありました。知っている言葉を、もう一度、自分への愛として受け取る時間です。

先生は、食べたり飲んだりし、一日の働きに幸せを見いだすことも、神からの贈り物として語りました。愛に応えて生きるのは、いつかの特別な日だけではありません。今日の食卓、今日の働き、今日出会う一人との時間にも、その歩みは続きます。

誰がなんと言おうと、あなたは愛されている。その愛を受け取りながら、自分を粗末にせず、隣の人も大切にしていく。師から受け継がれた十字架の愛は、私たち自身の今日へと手渡されています。

立ち上がった会衆と共に祈る北本福音キリスト教会の礼拝
一人一人が、自分に向けられた愛を受け取って祈る。