傷を負ってくださった方に、今の自分を委ねる

罪を犯したのは私なのに、傷を負ったのはジーザスだった。アーサー先生は、罪のないジーザスが私たちの罪を負い、十字架にかかり、死んでよみがえられたことを語ります。自分の過ちや弱さを見つめる私たちの前にあるのは、その私たちを愛して、ご自身をささげてくださった方の姿です。

それほど愛されていると知っていても、大切な人や積み重ねてきたものを失うのは怖い。委ねたいと願いながら、握りしめた手を開けないことがあります。自分の将来も、愛する人の歩みも、思いどおりでなければ不安になる。その本音を抱えて、今回のメッセージを受け止めていきます。

アーサー先生がたどるアブラハムとイサクの物語には、授かった喜びと、それを自分のものとして抱え込む私たちへの問いが重なります。羊がまだ見えない道を進む父と子。その歩みから、神の備えを信じること、自分自身をささげる礼拝の意味が語られます。

私たちのために命をささげてくださった方に、今の自分を託していく。委ねきれない心も、隠さずに持っていく。昔はできたことや今も守りたい立場を見つめながら、今の自分として神と生きる歩みを考えていきましょう。

僕たちはいろんなものを背負って生きる人間ですから、

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE 00:03:16
森を背景に、背負っているものを神に委ねることを語るアーサー先生。
手放せない思いを抱えた自分も、神の前へ。

昔の自分と今の自分の間で

先生は、柔道の山下選手へのインタビューを聞いたときのことを紹介します。先生の紹介によれば、山下選手は、体が思うように動かない今の自分を勝ち負けで捉えるのではなく、生かされている命をこれからどう生き、人を励ましていけるかに目を向けていました。

着替えにも人の助けが必要な現実と向き合いながら、かつて元気に動けた自分も大切に思う。その両方を受け止めようとする姿に、先生は、過去の実績を委ねて生きるあり方を見つめています。

私たちにも、以前はできたことが今はできない、かつて担っていた役割がなくなった、という経験があるかもしれません。過去の自分を思い出すたびに、今の自分には何が残っているのだろうと感じる。努力してきた時間が長いほど、その変化を受け止めることは難しくなるでしょう。

先生は、年を重ねた今の自分をも、高価で尊い存在として愛する神へと目を向けます。昔の自分を大切に思いながら、今日の自分として神とともに生きる。すぐに気持ちが追いつかなくても、過去と比べてしまう苦しさを神に話すことはできます。

この話を聴く私たちも、その人が今できることや、前向きな言葉を語れるかどうかだけで、その歩みを測らずにいたいと思います。どんな助けを受け、どんな思いを抱えながら今日を過ごしているのか。相手の現実を知ろうとすることは、その人を大切にする関わりの始まりになります。

もう青春時代は柔道一直線っていう感じで、柔の道を極めようとしたわけですよね。

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE 00:05:24
道場で撮影された、先生の柔道時代の集合写真。
かつての自分を大切にしながら、今日を生きる。

待てない焦りが生むすれ違い

この日の中心となる御言葉は、創世記 22:1–19です。アブラハムがイサクを伴って山へ向かう場面に入る前に、先生は、そこに至るアブラハムとサラの歩みを振り返ります。

神の約束があっても、二人の間にはなかなか子どもが与えられませんでした。子どもを授かれないサラは、ほかの人と自分を比べ、心の中に葛藤を抱えていたのではないか。先生はそう想像しながら、その待つ時間の重さに思いを寄せます。

二人はハガルを通して子を得ようとし、イシマエルが生まれます。しかし、その過程では、サラとハガルの関係に対立が生じ、互いを傷つけるような出来事も起こりました。先生はこの歩みを、神の約束を待つ中で、自分たちの思いによって事を進めようとした人間の姿として語ります。

先が見えない時間が続くと、何かを決めてしまいたくなることがあります。結果を出せれば安心できると思い、周りの人の気持ちや状況を十分に聴かずに動いてしまう。そして思うようにならないと、今度は相手を責めたくなる。その揺れは、私たちにも遠いものではありません。

同時に、先生は、そうした人間の混乱の中でも、神がハガルとイシマエルを顧みておられることに目を向けます。人の計画が行き詰まったところにも、神に顧みられる一人ひとりがいる。自分たちの失敗の説明に気を取られると見失いそうになる、その人の存在を覚えたいのです。

アブラハムたちの歩みには、信じることと、自分で何とかしようとすることの間を揺れる人間の姿があります。私たちもその姿に自分を重ねながら、待てない焦りも、うまくいかなかった関係も、神の前に持っていくことができます。

赤ん坊を抱くサラと、そばにいるアブラハムを描いた映像中の聖書場面。
長く待ち望んだ子が与えられる。

ヨブの苦しみに、友人たちは何を見たか

ただ、誰かが苦しんでいるという事実から、その人の失敗や罪を原因と決めつけることはできません。アブラハムの試練について語る途中で、先生はヨブに目を向けます。この話は、試練の中にいる人を私たちがどう見るか、また、自分が試練にあるとき誰に向かって語るかを確かめる、大切な節目です。

先生は、友人たちがヨブの苦しみを彼の罪と結びつけたことに触れます。神についてもっともらしく説明していても、目の前のヨブの状況を理解せず、憐れみや恵みを欠いた言葉になっていた。先生が問題にするのは、語られる正しさと、その言葉を受け取る人の苦しみとの間にある隔たりです。

さらに先生は、友人たちが神について語る一方、ヨブは神に向かって悩みや問題を訴え続けたことに注目します。神の声が聞こえない中でも、ヨブは神に祈り求めていました。分からないことを抱えたまま、それでも神に語りかける。その姿に、先生は神との関わりを見つめています。

私たちは、相手の話を聞いているつもりで、自分の知っている説明に当てはめてしまうことがあります。話を聞き終える前に原因を決め、教訓にまとめてしまえば、まだ言葉になっていない痛みを聞き逃します。その人は何を失い、何を恐れ、何を神に尋ねているのでしょうか。こちらが用意した答えを伝えたあとにも、その声を聴く余地は残っているでしょうか。

苦しむ人に言葉をかけるとき、私たち自身も、分からなさを抱えます。何を言えばよいか分からない。祈っても状況が変わらず、どう受け止めればよいか分からない。その戸惑いを認めながら、相手の話に耳を傾け、自分も神に助けを求めることはできます。

必要な言葉を伝えるときにも、相手の声を聴き続ける関わりの中で伝えたいのです。ヨブと友人たちの場面は、正しい答えを持つ人であろうとする私たちにも、自分の考えを神の前に差し出し、もう一度目の前の人を見るよう問いかけています。

それは誤解であり、ちゃんと状況を理解してないということを彼は訴え続けるわけですよね。

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE 00:41:59
山と湖を背景に、ヨブと友人たちの言葉について語るアーサー先生。
答えを伝えたあとにも、相手の声を聴く。

与えられたものが自分の誇りになるとき

説教は再びアブラハムの物語へ進みます。神はアブラハムに、愛するイサクをささげるよう告げます。この場面で先生が問いかけるのは、与えられたものと、与えてくださった方との関係です。

長く待ち望んだ子が与えられた喜び。その大切な贈り物が、いつの間にか自分の所有物、自分の誇りとなり、神よりも大きな拠り所になってはいなかったか。先生は、アブラハムの心に起こり得たことをそのように推し量り、私たち自身にも同じ問いを向けます。

私たちの生活でも、与えられた役割や、積み重ねてきた経験が、自分を支える大きなものになることがあります。感謝して受け取ったはずなのに、それを失うことを想像すると、相手の言葉を聞けなくなるほど不安になる。そのとき、自分が何に頼っているのかが見えてくる場合があります。

先生は、神に仕える立場にありながら自分の地位に固執し、目の前のイエスの言葉を受け止められなかった宗教指導者たちにも触れます。信仰に関わる知識や経験も、自分の立場を守るために使われてしまうことがあるのです。

人を助けてきた経験も、正しいことを学んできた時間も、大切なものです。その経験があるからこそ、知らないことを認め、相手から聴く姿勢を持てているでしょうか。感謝して受け取ったものを、今日も神の前に置き直す。その中には、自分の正しさや、人の役に立てる自分でありたいという思いも含まれるのかもしれません。

父と子が向かった礼拝の意味

モリヤへ向かう三日間について、先生は、アブラハムが問いながら自分の心と向き合った時間ではなかったかと読みます。想像を交えながら、神と自分との関係を静かに見つめる時間として、この旅を受け止めています。

アブラハムは同行者たちに、息子と礼拝に行き、戻ってくることを伝えます。先生はヘブル人への手紙にも触れ、そこに、死者をよみがえらせることさえできる神への信頼を見つめます。

道の途中で、イサクはささげ物となる羊の所在を尋ねます。アブラハムは、羊は神が備えてくださると答え、父と子は一緒に歩き続けます。先生はその姿に、父子の信頼を重ねて語ります。二人の胸の内をすべて言い切ることはできませんが、羊がまだ見えていない道を、ともに歩いたことが心に残ります。

この旅と重ねて、先生は礼拝とは何かという問いを深めます。ローマ人への手紙 12:1–2に触れ、先生は、自分自身を神にささげること、心を新たにされて生きることを語ります。賛美し、御言葉を聞く時間は、そのまま私たち自身の生き方につながっています。

さらに、ガラテヤ人への手紙 2:20を通して、キリストとともに十字架につけられ、キリストが自分のうちに生きてくださるという信仰を語ります。罪や我に支配される古い自分を十字架に置き、キリストの復活による新しい命を受けて、聖霊によって生きる。先生が語る礼拝には、この深い変化があります。

自分の考えを押し通したくなるとき、その自分を神に差し出す。相手を思いどおりにしたくなるとき、ジーザスの柔和さに学ぶ。礼拝で聞いた言葉を、次の会話でどう生きるか。自分自身をささげるということは、そのような具体的な場面にも関わってきます。

六節、アブラハムは全焼のいけにえのための薪を取り、それをその子イサクに負わせた。

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE 01:11:16
薪を背負うイサクと、その隣を歩くアブラハムを描いた映像中の聖書場面。
羊がまだ見えていない道を、父と子はともに歩く。

山に備えられていたもの

イサクをささげる物語には、読みながら立ち止まらずにはいられない厳しさがあります。神に委ねるとは、愛する子を傷つけることなのでしょうか。先生はここでレビ記とエレミヤ書を開き、子どもを犠牲としてささげることは神の御心ではないと確認します。

そして物語は、アブラハムの手が止められる場面へ進みます。イサクに手を下してはならないと、主の使いが告げます。アブラハムが目を上げると、角をやぶに引っかけた一頭の雄羊がいました。その雄羊が、イサクの代わりにささげられます。

主の山の上には備えがある

創世記 22:14(抜粋)

この備えの場面から、先生はジーザスの十字架へと目を向けます。父と子が歩いた道に、父なる神と御子の愛を重ね、私たちのためにご自身をささげ、死んでよみがえられたイエス・キリストを語ります。

アブラハムもイサクも、完全な人間ではありませんでした。先生はそのことを確かめながら、罪を犯す人間を招き、救うために来られたジーザスへと話を進めます。神との関係は、自分の強さや正しさを十分に示せた者だけに開かれているものではありません。自分の弱さや罪を抱えた私たちに、キリストの赦しが差し出されています。

何がどう変わるかを見通せないときにも、ジーザスが自らをささげた愛を思い起こし、その方に今の自分を託していく。先生の語る神の備えは、この十字架と復活の出来事へと結びついています。

苦しむ人のそばでこの御言葉を分かち合うときも、相手が今どこで立ち止まっているのかを聴きたいと思います。神の愛を語る私たち自身が、その人に向き合っているか。ヨブの場面で受け取った問いは、ここでも私たちの関わり方を照らしています。

やぶの雄羊に手を伸ばすアブラハムとイサクを描いた映像中の聖書場面。
山に備えられた雄羊から、ジーザスの愛へ。

礼拝から今日の一歩へ

罪を犯した私たちのために、ジーザスはご自身をささげ、死んでよみがえられました。アーサー先生は、その方を心に迎え、神に背を向けていた人も、もう一度キリストにあって生きるよう招いています。

失う怖さや、手放せない思いを抱えたままでも、まずはそれを祈りの言葉にしてみる。そして、一つの会話で自分の答えを急がず、相手の話を最後まで聴く。自分を押し通したくなるときにも、ジーザスに助けを求めることができます。

聖霊によって愛や寛容、親切、柔和の実を結ぶよう願いながら、十字架で示された愛に、今日の祈りと人との関わりで応えていきましょう。次の問いを、今日の二つの実践へつなげてみてください。

夕暮れの丘を背景に、手を広げて語りかけるアーサー先生。
礼拝で受け取ったことを、今日の祈りと会話へ。