「心の糧」――今回のメッセージのタイトルは、そのひと言から始まった
「心の糧」――今回のメッセージのタイトルは、そのひと言から始まった

体には食事がいる。では、心には何がいるのか

メッセージは、ひとつの単純な問いから始まった。私たちは生きるために食事をする。それは誰も疑わない。ではその同じ体に宿っている心は、いったい何を食べて生きているのか。

私たちは食事が必要ですよね。生きていくためには。でも同時に私たちに必要なのは心の糧だと。アーサー・ホーランド

腹が減れば人は食べる。けれど心が痩せていくとき、私たちはその空腹に気づかないことが多い。仕事の疲れ、人間関係のすれ違い、理由のわからない苛立ち。それを「忙しいから」で片づけているうちに、心は静かに栄養失調になっていく。この日のメッセージは、その空腹に名前をつけることから始まった。

「光あれ」――闇に光が与えられるところから、聖書は始まる
「光あれ」――闇に光が与えられるところから、聖書は始まる

一寸先は闇。だから、足元に灯がいる

詩篇には、御言葉は私の足のともしび、私の道の光だとある。アーサー先生はそこから、日本語でよく言われる「一寸先は闇」という言い方に触れた。

一寸先は闇だと言われる。人生の中で、神の言葉は闇に光を与えるんだと。アーサー・ホーランド

そして話は創世記の一章へ移る。地は形がなく、何もなかった。闇が大水の上にあり、神の霊がその上を動いていた。そこで神が語られた言葉が「光あれ」だった。すると光があった。神はそれを見て、よしとされた。

聖書はその最初のページから、言葉が闇に光を持ち込む物語として書かれている。人生の先が見えないという感覚は、多くの人にとって現実だ。聖書はその闇を否定しない。ただ、そこに灯を置く。

千五百年をかけて、およそ四十人の手で書き継がれた
千五百年をかけて、およそ四十人の手で書き継がれた

千五百年、四十人、六十六巻

「読んでもわからない」と感じる理由のひとつは、聖書がどういう書物なのかを知らないまま開いていることにある。アーサー先生は、その成り立ちを具体的な数字で語った。

聖書っていうのは千五百年にわたって、およそ四十人の人たちに書かれてると言われてるんだよね。アーサー・ホーランド

旧約が三十九巻、新約が二十七巻で、あわせて六十六巻。書いたのは王もいれば漁師もいて、医者も羊飼いも預言者もいた。ヘブライ語、アラム語、ギリシャ語という三つの言語で記され、巻物として残されたものが後に発掘され、今の形になっていった。

つまり聖書は一冊の本というより、千五百年かけて編まれた図書館に近い。創世記が「始まり」で、黙示録が「終わり」。その全体の地図を持って読むと、途中で迷いにくくなる。

「聖書はあなたに知恵を与えて」――第二テモテ3章15節
「聖書はあなたに知恵を与えて」――第二テモテ3章15節

知識ではなく、知恵を与える書物

この日の中心の聖句は、パウロがテモテに書き送った手紙だった。

聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。テモテへの手紙 第二 3章15節

ここで語られているのは知識ではなく知恵だ。知識は情報として増えていくが、知恵は生き方を変える。同じ聖句が、読む人の状況によってまったく違う意味を持って迫ってくることがあるのは、聖書が情報ではなく知恵を与える書物だからだとアーサー先生は語る。

そしてその知恵は、勉強して賢くならなければ手に入らないものではない。むしろ求める者に、惜しみなく与えられるものだという。

ロバと牛を一つのくびきに――二心は、両方を傷つける
ロバと牛を一つのくびきに――二心は、両方を傷つける

疑いながら願う人は、風に吹かれる大波

ヤコブの手紙の一章には、知恵を求める者への具体的な約束と、その条件が書かれている。

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ヤコブの手紙 1章5節

惜しげなく、とがめることなく。神は求める者を責めない。ただ、と聖書は続ける。

ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。ヤコブの手紙 1章6節

アーサー先生はこれを「二心」という言葉で説明した。あっちへ行き、こっちへ行き、両方欲しいという欲張り。そして旧約の律法にある、牛とろばを組にして耕してはならないという規定を引く。歩幅も力も違う二頭を一つのくびきに繋げば、どちらも傷つくだけだ。

両方っていうのは、まさに違う動物が、ロバと牛がくびきをしているようなもので、それは両方とも怪我をさせてしまうものだよね。アーサー・ホーランド

決めきれないまま生きることは、思っている以上に自分を消耗させる。安定を欠いた人、と聖書はそれを呼ぶ。

水面の上に見えているのは、ほんの一角にすぎない
水面の上に見えているのは、ほんの一角にすぎない

氷山の一角の、その下

メッセージの中盤で、アーサー先生は一枚の氷山の絵を見せた。水の上に出ているのは小さな山。しかし水面の下には、その何倍もの巨大な塊が沈んでいる。人は外側を見るが、神が見ておられるのはその下だという。

ヘブル人への手紙の四章十二節には、神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができるとある。

聖書を読んでいると、自分の心の中にある氷山の一角の下の部分ね、悪い考え、自分の妬みや恨みや辛み、そういうものがあるんだなって。御言葉の光は闇の部分を照らしてくれる。アーサー・ホーランド

敬虔に振る舞いながら、赦せない人を心の中に抱えている。綺麗事を語りながら、家族には違う言葉を使っている。自分でも見えていなかったその部分を、御言葉は照らす。それは責めるためではなく、そこから自由になるためだ。

「鹿が谷川の流れを慕い求めるように」――祈りをもって閉じられた
「鹿が谷川の流れを慕い求めるように」――祈りをもって閉じられた

読まなければならない、から、読みたくてたまらない、へ

メッセージは祈りで閉じられた。そこで語られたのは、聖書を義務として読む生き方から、渇いて求める生き方への転換だった。

もっともっとみ言葉は広く深く高く、読まなくちゃいけない、じゃ、読みたくてたまらない。アーサー・ホーランド

鹿が谷川の流れを慕い求めるように、主よ、私はあなたのみ言葉、あなたご自身を慕い求めますと言える一人一人になっていくことができますように。アーサー・ホーランド

心の糧は、一度にたくさん詰め込むものではない。食事と同じで、毎日少しずつ体に入っていくものだ。一日五分でもいい。今日ひとつの御言葉を心に入れることから始めればいい。それがこの日のメッセージの結論だった。