疲れ切っているのに、休めない日がある。ようやく静かな場所にたどり着いたと思ったら、そこにはもう用事が先回りして待っている。予定表は埋まり、心はすり減り、「自分にはもう差し出せるものが何もない」と感じる。

大阪弟子教会に招かれたアーサー・ホーランド先生が開いたのは、まさにそういう日の話だった。マルコの福音書6章30節から44節。伝道から帰ってきた弟子たちに、イエスは「しばらく休みなさい」と言われる。ところが舟で向かった先には、すでに大群衆が待っていた。そしてイエスは、疲れている弟子たちにこう言われる——「あなた方であの人たちに何か食べるものをあげなさい」。

無茶な要求に聞こえる。けれどこの一言の先に、二匹の魚と五つのパンの奇跡があり、そして今日の私たちへの招きがある。

大阪弟子教会の講壇でマイクを手に語るアーサー・ホーランド
大阪弟子教会に協力牧師として立ち、マルコの福音書6章から「あなたは何を手に持っているのか」と問いかけた。

「休みなさい」と言われた場所に、群衆は先に着いていた

この日の集会は、大阪弟子教会の担任牧師・金沢泰裕先生の司会で始まった。アーサー先生は冒頭、金沢先生ご夫妻がヤクザの世界から抜けて間もない頃に出会ったことを振り返り、いま牧師として神への賛美を捧げている姿に「非常に慰められ、励まされます」と語った。そして金沢先生が、この日のテキストを読み上げる。

使徒たちは伝道から戻り、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。イエスは彼らに「さあ、あなた方だけで寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」と言われた。理由が続けて書かれている。「人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである」。

ところが舟で静かな岸辺を探しているうちに、群衆は陸路を走り、先に着いてしまった。休むために来たのに、また人混みがいる。アーサー先生は率直に言う。「休む暇ないじゃんって」。

五つのパンを手に持つイエスと、草の上に座る群衆を描いた挿入映像
冒頭で朗読されたマルコ6章の場面。パンは裂かれ、弟子たちの手から人々へと配られていった。

富士山を四方から見るように、聖書を読む

この出来事は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書すべてに記されている。アーサー先生は、それぞれの書き手の目が違うことに注目する。ルカは医者らしく物事を細かく見る人、マタイは取税人、マルコはペテロから多くの話を聞いた青年。同じ出来事でも、見る位置が違えば描かれるものが変わる。

そこで出てくるのが富士山のたとえだ。北から見た富士山、南から見た富士山、西から、東から。「東西南北、相対的に見ていくと、そこの中の出来事が、もっと深み、広み、高みあって解釈できる」。四つの角度は矛盾ではなく、一つの山を立体にしてくれる。

さらにアーサー先生は、30節だけを切り取らず前後を読むことを勧める。少し前の7節で、イエスは十二弟子を遣わし、伝道するようにと指示していた。今日の箇所は、遣わされた弟子たちが帰ってきた場面から始まっているのだ。

言うこととやることが一つになる時、メッキは剥げない

「弟子教会というのは、牧師一人が頑張る場所じゃないんです」。羊飼いは羊を育てる。そして育てる者は、自分が語っている御言葉に自分が生き、その生き方を活動を通して周りに見せていく。

リーダーというのは、言っていることとやっていることが一つでないと説得力がないんです。ARTHUR HOLLANDS

アーサー先生はここで、ヤクザの世界の記憶を重ねる。口が達者で、人を感動させ、芸人のように場を乗せる賜物を持つ者はいる。しかし生き方が伴わなければ「メッキが剥げる」。そして自分の言ったことに責任を持って生きている親分や女将さんは、そういう相手を見抜くのだという。

だからイエスは、弟子たちに語ったことを自分がやってみせた。悪霊が追い出され、病が癒され、盲人の目が開かれる。弟子たちはそれを目の前で見ながら育てられた。「言ってることとやってることが一つになったらインパクトはすごいんです」。

身振りを交えて羊飼いとリーダーの姿について語るアーサー・ホーランド
「活動を通して周りに見せていくのが羊飼いであり、リーダーなんです」。語る言葉と生き方が一つであることが問われる。

もう一つ、鋭い指摘があった。聖書を最もよく知っていた律法学者や宗教家が、待ち望んでいたメシアを見抜けなかった。むしろ日雇いで働くような人々のほうが「この方は救い主だ」と分かった。「聖書を持ってる。読むことができる。しかし、その内容をまだ生きてるのかとなると、これはまた違う」。

高価で尊いあなたのために、粋な方が尻拭いをした

ではなぜ、御言葉を生きることがそれほど大切なのか。アーサー先生の答えは、人間の出どころに戻っていく。人は神のかたちにかたどられ、息吹を吹き込まれて命あるものとなった。だから一人ひとりが「神のイメージを運ぶ者」として生かされている。

神はあなたを高価で尊い者として愛している。変わらない。ARTHUR HOLLANDS

世の中は比べる。ダサい、太っている、勉強ができない、と値札を貼る。けれど神は比較しない。「世の中はお前なんか価値ねえというかもわかんない。違う」。この違いに気づかないまま生きることを、アーサー先生は「神を見失って生きる」と呼び、そこから人は崩れ、腐っていくのだと語った。

クリスチャンとは、このイエス・キリストを心の中に迎え入れ、この方と共に生きる者のことだ。そうすると聖霊が働き、その人の眼差しを通してイエスが人々を見、その人の心を通してイエスが人々に寄り添う。パウロが「俺を見ろ、俺の中にあるイエスが見えるか」と言えたのは、それほどイエスと一つだったからだ、と。

ここでアーサー先生は、日本語の「粋と野暮」を持ち出す。野暮な人間は粋になりたい。けれど粋がった瞬間に野暮になる。その「粋」という言葉に、息吹を与えられた最も魅力的な人間の姿を重ねてこう言った。

イエスこそ粋な方。野暮な罪人の俺らの尻拭いを、粋な方が十字架で、俺がお前の尻拭いする、と。ARTHUR HOLLANDS

そして、義理と人情の映画に憧れたヤクザの世界と対比する。いまのヤクザは義理と人情を語りながら、自分の犯した罪を弟分に尻拭いさせる。「そんなの親分じゃねえよ」。けれどイエスは罪を犯していないのに、罪人の私たちのために、その罪の始末を引き受けると言われた。「こんな親分いるか?」

夕暮れの丘に立つ十字架と、遠くに広がる城壁の町を映した挿入映像
「人の子ジーザスが、あなたのために命を十字架の上で捨てる」。これよりも大きな愛はない、と語られた場面。

十字架は身代金の支払いでもあった。過去・現在・未来の罪をイエスが贖い、死んでよみがえってくださったからこそ、「今はキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」と言える。自責の念に苦しむ人に向けて、アーサー先生は「誰も知らないけど、俺は知ってるぜ」とささやく悪魔の声と、十字架という視点の違いをはっきり示した。

忙しさは、心を亡くすと書く

話は31節に戻る。伝道から帰ってきた弟子たちを見て、イエスは彼らが疲れていることをすぐに見抜いた。そして「しばらく休みなさい」と言われた。

笑顔で「やっぱり神様って優しいよね」と語るアーサー・ホーランド。背後のモニターにはマルコ6章31節が映る
背後のモニターには「ゆっくり食事する時間さえなかったからである」の一行。休養を命じる神の優しさを語る場面。

携帯電話に充電器が必要なように、人にも休みがいる。アーサー先生は漢字を分解してみせた。

忙しいというのは、心を滅ぼす、心をなくすと書くから。ARTHUR HOLLANDS

「忙しいと言い始めたら、神のリズムとトーンの中で生きてないと思った方がいいかもわからない」。さらに厳しい問いが続く。無駄なことに忙しすぎて、大切なことに忙しくなることを忘れていないか。大切なことに忙しい時、心は本当に喜びに満たされ、癒されるのだ、と。

羊飼いのない羊を、深くあわれまれた

34節。舟から上がったイエスは多くの群衆をご覧になり、彼らが羊飼いのない羊のようであるのを深くあわれみ、教え始められた。普通なら「また来たのか」と思う場面で、イエスの心は動いた。この「あわれみ」は人間の情けとはレベルが違う、とアーサー先生は言う。

羊飼いがいない羊は道に迷い、とんでもないものを食べて病気になり、野獣に襲われる。かっこいいと思った人のところへ行ったら利用され、金を奪われ、最後はその人のために刑務所へ行くことになった——そんな人生を、アーサー先生は数えきれないほど見てきた。「そいつは本当の羊飼いじゃないんですよ。本当の羊飼い、良い羊飼いは羊のために命を捨てるんです」。

詩篇23篇が重ねられる。主が羊飼いなら、乏しいことは一切ない。そして、その逆説がこう語られた。

何もないから全てがあるって気づくんです。ARTHUR HOLLANDS

金や物で豊かになろうとして豊かになれず、何もなくなった時に、「この方がいれば本当の幸せを体験できる」と気づかされる。良き羊飼いは、緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴い、渇いた魂を永遠に潤す泉へ連れて行ってくださる。

子どもの弁当が、主の手に置かれた

そのうち時刻が遅くなり、弟子たちは現実的な提案をする。「みんなを解散させてください。近くの村で何か食べるものを買うようにさせてください」。もう十分に働いた。自分たちも腹が減っている。ところがイエスの答えは、彼らの想定を超えていた。

お前らが食い物を与えてあげなって。これって大きな宿題だよ。ARTHUR HOLLANDS

アーサー先生は、これを弟子への実践訓練だと読む。師匠がどうするかを見せるだけでなく、弟子自身の手を動かさせる訓練。そして自分の日常を重ねて語った。前日の集会でも、メッセージが終わってほとんどの人が帰った後、最後まで人のために祈っていた。「それは俺にとっては喜びであり、当たり前なんですよ」。語るだけ語って自分だけ食事に行くことはできない、と。

弟子たちの反応は対照的だった。ピリポは即座に計算し、二百デナリ——今なら二百万円はかかるという現実を突きつける。アンデレは体当たりで走り回り、弁当を持っている人を探した。そして見つけたのは、一人の子どもだった。

二匹の魚と五つのパンが入ったかごを差し出す少年と、それを受け取ろうとする人物を描いた挿入映像
「おじさん、僕の二匹の魚と五つのパンの弁当をおじさんにあげる」。幼子の手から、奇跡は始まった。

「幼子にならないと神の国に入れない」という言葉を引きながら、アーサー先生は指摘する。自分の昼飯を差し出したこの子どものほうが、弟子たちよりも神が分かっていたのではないか、と。そしてイエスは、その小さな弁当についてこう言われた——「私の手に置きなさい」。

祈りの後、パンと魚は弟子たちの手から配られ、増え続けた。男が五千人。女性や子どもを含めれば約二万五千人が満腹し、残りは十二のかごにいっぱいになった。仕えた弟子たち一人ひとりの分まで、山盛りで用意されていたのだ。

アーサー先生は、無から有を造られた神の御業をたどり、こう畳みかけた。「それができる神なら、二匹の魚、五つのパンで祈って、無から有のわざを起こし、二万五千人が満たされる」。そして自分の立場をはっきり告げる。「俺は信じます。あなたはどうですか?」

見えない神の真実を握りしめ、信仰によって生きたら、聖霊が目の前で奇跡を起こします。ARTHUR HOLLANDS

三つの宴会——おもてなしの原点はどこにあるのか

ここからが、この日のメッセージの核心だった。アーサー先生は、マルコ6章とその周辺に「三つの宴会」を見る。

一つ目は、直前の14節から29節にあるヘロデ王の誕生日の宴会。招かれたのは金持ちと千人隊長とローマ帝国のリーダーたちで、貧しい者は一人も招かれない。豪華な食事と酒に酔い、踊りに歓声を上げたその宴の最後に運ばれてきたのは、バプテスマのヨハネの首だった。「なんて気持ち悪い宴会だろう」。

二つ目は、その直後の宴会。貧しい人たちが草の上に座り、二匹の魚と五つのパンで満たされる。人々も、仕えた弟子たちも満たされ、神の栄光が現れる。同じ章の中に、まったく質の違う二つの食卓が並んでいる。

そして三つ目が、後の最後の晩餐だ。翌日十字架にかかるイエスが、パンを裂いて「これは俺が裂かれる体だ」と言い、杯を取って「このワインは俺が流す血だ」と言われた。

ろうそくの灯る食卓でパンを裂くイエスと弟子たちを描いた最後の晩餐の挿入映像
「これを食べて、俺がお前たちのために十字架にかかって、お前たちを救ったことを思い出せ」。三つ目の宴会が示すもの。

三つの食卓を並べたうえで、アーサー先生は問いを立て、自分で答えた。

結局、おもてなしの原点はどこか、って。イエス・キリスト。ARTHUR HOLLANDS

イエスは十字架を通してあなたをもてなす。裂かれた体を通して心を満たし、流された血によって罪の汚れを洗い流し、東から西へ罪を打ち消して「もう思い出さない」と言ってくださる。「どんなおもてなしにも勝る、どんなシェフよりもすごい」。人はパンだけで生きるのではなく、一つ一つの神の言葉によって生きる——その食卓に、私たちは招かれている。

すべて疲れている者は、私のところに来なさい

メッセージの最後、アーサー先生は会衆に頭を垂れるよう促し、一つの招きの言葉を告げた。「すべて疲れている者、重荷を負っている者は、私のところに来なさい。私があなたを休ませてあげます」。

信仰的に歩んでいても疲れることがある。空回りすることも、脱線することもある。それを自分の弱さとして正直に認めて差し出すなら、その弱いところにイエスが働いてくださる。「魂の師匠であるジーザスを心の中に、心の王座に置きたいと思います」——そう祈りが導かれ、この日、手を挙げて応答した人たちがいた。

物語はきれいに閉じている。休みなさいと言われた場所で、イエスは群衆をあわれまれた。そして疲れている弟子たちに「あなた方であげなさい」と言われた。差し出せるものが何もないと思っていた手に、子どもの弁当が渡され、それが主の手に置かれた時、二万五千人が満たされた。

今日の問いに戻ろう。「もう自分には何もない」と思っているその手の中のものを、あなたは今日、イエスの手に置くことができるだろうか。まずは、無駄に忙しいことを一つ手放して、静まって御言葉を読むことから。そして、手の中にある小さなものを一つ選んで、目の前の一人のために差し出すことから。おもてなしの原点はイエス・キリストであり、その方はすでに、あなたのために食卓を整えて待っておられる。