罪を知ったうえで、彼女を守った

もう少しちゃんとした人間になれたら。過去を恥じずに話せるようになったら。それからでなければ、愛を受け取ってはいけないのでしょうか。

アーサーホーランド先生が語る、ジーザス(イエス・キリスト)と一人の女性の場面は、その順序を問い直します。不貞の罪に問われた彼女を、人々はジーザスの前に連れてきました。彼らは女性を利用して、ジーザスを試そうとしていました。

しかし、その場には相手の男がいません。アーサー先生は立ち止まります。

女はいるけど、どこに男がいるんだ?男はいない。

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE

正しく裁くと言いながら、女性だけに責任を負わせる。その偏りは、自分の正しさを疑わない心にも目を向けさせます。

罪のない者が石を投げるようにとジーザスが語ると、誰も投げられませんでした。やがて、女性とジーザスだけが残ります。ジーザスは彼女を罰せず、もう罪を犯さないようにと語りました。

彼女が立派な人に変わったことを確認してから、守ったのではありません。罪をなかったことにするのでも、罪を理由に人を見捨てるのでもない。その愛の前に、自分を責めている私も、人を責めている私も立たされます。

砂漠を背景に、女性を守ったジーザスについて語るアーサー先生。
罪を知ったうえで、その人を見捨てなかった。

穴の開いた空き缶が、街の灯りに見える

講演の入口には、暗い海で方向を見失う船と、岸辺で灯火を持つ人々のイメージがありました。灯台も手元の灯火も、船に陸の場所を知らせる目印です。光は、迷っている人へ向けられています。

続いて紹介されるのは、潰れたり、穴が開いたりした空き缶を使った作品です。光が当たると、そこにマンハッタンの街並みが見えてきます。穴さえも、建物の中で人が暮らしていることを示す灯りに見えます。

光加減だけでこんなに変わるんだ。

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE

同じものを見ているのに、受け取る景色が違ってくるのです。

中心となるヨハネの福音書 8:12では、ジーザスはご自身を世の光とし、ご自身に従う者がいのちの光を持つと語られています。アーサー先生は、混乱する世界の話から、私たちの心のあり方へと話を進めます。

この作品から考えたいのは、欠けがあるから価値がない、と決めてしまう自分の見方です。女性の罪は見えても、彼女を守るべき一人としては見られなかった人々。私たちも、人の失敗や自分の欠点を知ったところで、見ることをやめていないでしょうか。

空き缶の造形と街並みのような影を紹介する映像中の作品。
欠けのあるものも、光の当たり方によって違って見える。

隠す、人のせいにする。その繰り返しに心当たりがある

見られたくない自分があるとき、人はどうするのでしょう。講演は、聖書の最初に登場するアダムとエバの姿をたどります。神の言葉から離れた二人は、自分の姿を恥じ、葉で覆い、神の声を聞いても隠れようとします。

隠れる、隠す。

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE

そのあとアダムは、取って食べた責任をエバに向けます。責任を他人へ向けるその姿を、遠い昔の人だけの話として聞けるでしょうか。

私の失敗には事情がある。でも、あの人の失敗は本人が悪い。そんなふうに、自分と相手に違う物差しを当ててはいないでしょうか。謝る言葉より先に説明を並べるとき、私は何を守ろうとしているのでしょう。

ここで、講演に登場するもう一つの場面も思い出したいと思います。生まれつき目の見えない人について、弟子たちは本人か両親の罪が原因なのかと尋ねます。ジーザスは、どちらでもないと答え、その人に神の栄光が現されることを語ります。

この場面から、自分の過ちを認めることと、あらゆる苦しみを自分のせいにすることは、分けて考えたいと思います。他人への責任転嫁も、自分への際限のない判決も、目の前にいるジーザスの言葉を聞くことから、もう一度見つめ直したいのです。

湖と虹を背景に、人の心のあり方について語るアーサー先生。
隠す心も、人に責任を向ける心も、自分の中にないだろうか。

同じ失敗を繰り返す人に、聖書は何を語るのか

アーサー先生は、世の光という言葉を、ヨハネの福音書 1:1–5にある、神とともにあったことば、そして創世記の天地創造へと結びます。混沌と闇のあるところに神が語り、光がある。その始まりから、人の心にいのちをもたらすジーザスを見つめていきます。

創世記の最初の日の光と、後に語られる太陽や月。先生は両者に注目し、最初の光を神の栄光と結び、ジーザスへとつながるものとして読みます。別々に見える箇所の奥に、同じ方の働きをたどる読み方です。

その聖書には、人が神から離れ、混乱を招き、なお神が和解と回復をもたらす歩みが繰り返し現れます。先生はそれを、コルトレーンの音楽にたとえます。同じ旋律でも、奏でる楽器が変わる。

同じことが繰り返される。これが聖書なんです。

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE

繰り返されるのは、人の失敗だけではありません。憐れみ深く、怒るのに遅い神の姿も、繰り返し語られます。昨日と同じところでつまずいたから、もう聞く資格がない。そう考えて聖書を閉じようとするとき、その繰り返しをどう受け止めるでしょうか。

反省を重ねても、自分を見限る結論にしかたどり着けないときがあります。聖書を開くことは、自分の失敗だけを読み直すことではなく、その人間に向けられている神の働きも読み直すことなのです。

海と光を描いた、天地創造を語る映像中のイメージ。
闇のあるところに語られる、光をもたらす言葉。

聖書を読んでいる。その言葉を聞いているだろうか

ただし、聖書を知っていることと、その言葉を受け取って生きることは同じではありません。アーサー先生は、自分のしていることを正当化するため、都合のよいところだけを取り出す読み方を問いかけます。

相手に聞かせたい一節は、すぐに思い浮かぶ。それなのに、自分の言い方や生き方を問い直す言葉は、聞き流してしまう。そのとき、御言葉を聞いているのでしょうか。それとも、自分の意見を支えるために使っているのでしょうか。

先生の問いは、聞き手だけに向けられてはいません。

語ってる俺はどうなんだ

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE

語る自分自身もまた、その言葉の前に立っています。

そして、信仰を一度きりの出来事で終わらせません。

一回イエス様を受け入れたから終わりじゃない。

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE

そこから関係が始まり、心を交わしながら歩み続けるのだと語ります。

詩篇 1に登場する、水路のそばに植わった木も、その関係を考える手がかりです。御言葉を繰り返し口ずさみ、心にしみ込ませていく。何冊読んだかという数ではなく、今日、その言葉を自分に向けて聞けるか。今日の会話や選択に、どんな応答を残せるかが問われています。

山並みを背景に、語る自分自身を問い直すアーサー先生。
相手だけでなく、自分も御言葉の前に立つ。

朝4時半の道と、荒野で過ごした40年

アーサー先生は、十字架を担いでアメリカ大陸を歩いたときの朝を語ります。歩き始めるのは、まだ暗い朝4時半ごろ。やがて茂みから鳥の声が聞こえ、空には紫、紅、オレンジと色が現れ、太陽が顔を出します。夜明けは、一つの瞬間だけでなく、その移り変わりとして語られています。

別の場面で登場するモーセは、自分の力で事を成そうとして人を殺し、逃れた先で40年間、羊飼いとして過ごします。燃える柴を通して神に出会い、人々を救い出すために遣わされます。アーサー先生は、その荒野の日々を、導く者として教えられる時間として語ります。

これは、誰の遠回りも必ず望む結果になるという約束ではありません。しかし、失敗した一場面だけで、自分の物語を終わりにしていないかと考えさせられます。私たちには神の働きを初めから終わりまで見極められない、という言葉も講演にはあります。

鳥の声、川のせせらぎ、林を渡る風。先生は、身近な被造物を通して神の存在に気づくことへも目を向けます。

だから神は遠くにいない。

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE

自分にはもう何もないと判断する、その手前で、まだ聞いていない言葉や、見過ごしているものに耳を澄ませたいのです。

燃える柴の前に立つモーセを描いた映像中の聖書場面。
失敗の一場面だけで、その後の歩みを決めつけない。

赦された弟子たちは、もう一度、人々のもとへ

ヨハネの福音書は、神のことばが人となり、私たちの間に住まわれたことを語ります。アーサー先生は、このジーザスの歩みと十字架、復活に、神の愛と赦しが具体的に現れたことを見つめます。ヘブル人への手紙 1:1–3も、御子であるジーザスが神の栄光と本質を現す方であることを語る箇所として紹介されます。

神の国を、自分たちの理想がかなう政治的な勝利として思い描く人々と、剣ではなく愛を身をもって示したジーザス。その隔たりも、この説教の大切な問いです。信じているつもりでも、自分の期待と違う姿で来られたなら、受け入れられないことがあるのです。

それでも、復活したジーザスは、裏切った弟子たちのもとに現れます。やがて彼らは聖霊によって力を与えられ、福音を宣べ伝える者として歩みます。立派な経歴を持つ人だけが選ばれた、という話ではありません。

先生は、父なる神、御子なるキリスト、聖霊がともに人を救い、人のうちに神の栄光を現す働きを語ります。その行き先は、遠い場所の話だけではありません。神の御心が、この地で、人の生き方を通して行われることです。

赦しを受け取るところで、人との関わりが終わるのではない。受け取った愛を携えて、今度は自分が人々のもとへ向かう。その動きが、弟子たちから私たちへとつながっています。

木の家を背景に、見守り弁護するジーザスについて語るアーサー先生。
受け取った愛を、今日出会う一人へ。

今日、目の前の一人をどう見つめるか

講演の終わりに、アーサー先生は、視聴者の眼差しを通して人を見つめ、心を通して愛し、手足を通して仕える働きが現れるように祈ります。ここで問われるのは、どれほど美しく愛を説明できるかではなく、私のそばにいる人へ、どんな眼差しと言葉を向けるかです。

自分の過ちを認めることは、自分を愛から締め出すことではありません。相手の過ちを見過ごさないことも、その人のすべてを否定することとは違います。女性を守ったジーザスの姿は、責める側にも、責められる側にも、その違いを問いかけています。

今日、誰かを責める言葉が浮かんだとき、自分には認めている事情を、その人にも認めているか、立ち止まってみる。自分を恥じて隠れたくなるとき、整えた説明ではなく、いまの心を祈りにしてみる。聞いた言葉への応答は、そのような小さなところにもあるのではないでしょうか。

あなたにとどまる者としてください。

ARTHUR HOLLANDS — MESSAGE

講演の祈りにあるこの願いは、明日から完璧になるという宣言ではありません。今日もジーザスの言葉を聞き、その方との関係の中で歩みたいという願いです。

まともになってから愛されるのか。その問いの前に、罪のある女性を守ったジーザスがいます。自分を隠すためでも、人を責めるためでもなく、この方の言葉を聞く。そのところから、今日の一歩を始めてみませんか。