相手の言い方が気になって、何度も思い返してしまう。自分の言い分をわかってほしくて、つい言葉が強くなる。ところが、自分の間違いを指摘されると、今度は理由を並べたくなる。そんな心の動きに、覚えはないでしょうか。

正しいことを大切にしているつもりでも、その正しさで誰かを追い詰めてしまうことがあります。人を責めている間は、自分の弱さを見ずに済むのかもしれません。

成増教会で語られた今回のメッセージは、ヨハネの福音書 8:1-12を通して、その心に光を当てます。なぜ、ジーザスは宗教家に厳しく語るのでしょうか。人を裁く側にも、裁かれることを恐れる私たちにも、この問いは深く関わっています。アーサー先生が繰り返し向き合うのは、ジーザスを前にした私たち自身の心です。

1.思うように歩けなくなった人の、愛の告白

説教の初めに語られるのは、十字架行進に参加した、パワーリフティングの日本チャンピオンの話です。膝の手術を受けたその人は、行進を歩くことを願っていました。しかし、一日を過ぎると体は厳しい状態になり、祈りとサポートに回ることになったといいます。

そこで彼が学んだのは、支える側にいても神を賛美できる、ということでした。みんなで祈るとき、彼は「イエス様あなたを愛します」と声を上げました。アーサー先生は、その言葉がとても新鮮だったと振り返ります。

頑張ってきたことを、最後までやり通せない。願っていた役割を果たせない。そんなとき、自分には何が残るのだろうと感じることがあります。この人の姿は、その場所でもジーザスに愛を伝えられることを教えてくれます。

信仰の知識や、積み重ねてきた行動は、誰かと自分を比べる材料にもなります。しかし、この短い告白の中にあるのは、ジーザスご自身へ向けられた思いです。アーサー先生は、愛を言葉にし、それを日々の生き方にも表していくことを勧めます。今回の厳しい問いかけも、この愛の関係を入り口にして聴くことができます。

成増教会でマイクを持って語るアーサー・ホーランド
できることだけで自分を測らず、ジーザスへの愛を言葉にする。

2.光が当たると、同じものが違って見える

続いてアーサー先生は、穴の開いた缶や錆びた缶を使った作品を取り上げます。一見すると混沌とした集まりですが、ある角度から光を当てると、その後ろにマンハッタンの街並みを思わせるシルエットが現れるという作品です。

先生は、この光景を、混沌としたところに神の光が差し込むことのたとえとして見つめます。そして、創世記の第1章と、ヨハネの福音書の第1章を結びつけ、いのちの光であるジーザスへと話を進めていきます。

光が当たれば、隠れていたものも見えてきます。心の場合、それは必ずしも気持ちのよいことばかりではありません。相手を心配しているつもりだったのに、実は自分の思いどおりにしたかった。正しさを守っているつもりだったのに、自分が認められたい気持ちが混じっていた。そう気づくこともあるでしょう。

アーサー先生は、ジーザスが心を照らすことを、その人への愛と結びつけて語ります。自分でも見ないようにしていた思いが見えたとき、そのままジーザスの前にとどまれるでしょうか。次に語られる女性の出来事は、光を前にした人の心を、はっきりと映し出していきます。

動画で紹介された穴の開いた缶を並べた作品
光を受けると、見えてくるものがある。
動画内の水面と光を描いた創造のイメージ映像
混沌の中に差し込む光。

3.目の前の一人を、言い負かすために使う心

ジーザスが宮で人々に教えていたところへ、律法学者とパリサイ人が一人の女性を連れてきます。姦淫の場で捕らえられた彼女を、人々の真ん中に置き、律法に照らしてどうすべきかと問いかけました。

朗読された箇所には、彼らがジーザスを試し、告発する理由を得ようとしていたことが語られています。女性の人生をどう受け止めるかという問いが、ジーザスを追い詰めるための材料にされていたのです。

アーサー先生は、女性だけが連れてこられていることにも目を留めます。相手の男性はどこにいるのか。律法を持ち出しながら、自分たちの都合に合わせて一人をさらし者にしてはいないか。そこに、正しい言葉の陰に隠れた心の闇を見ています。

この場面から、ジーザスが宗教家に厳しく語る理由が見えてきます。神について教える立場にありながら、その教えを人を追い詰めるために用い、自分自身の心には向き合おうとしない。知っていることと、目の前の人への接し方の間に、大きな隔たりがあるのです。

私たちも、相手の一つの失敗を持ち出して、その人の言葉を全部退けたくなることがあります。正しい説明をしているうちに、相手がどんな思いでそこにいるのかを、考えなくなってしまうこともあります。先生の問いは、そうした私たちの身近な場面にも届いてきます。

4.人に向けていた問いが、自分に返ってくる

ジーザスは身をかがめ、地面に書いておられました。何を書いたのかについては、アーサー先生も想像の範囲であると断っています。その中で、はっきりと語られている言葉があります。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

それを聞いた人々は、年長者から一人ずつ去っていきました。女性を裁こうとしていた人たち自身が、自分の罪と向き合うことになったのです。

ここでアーサー先生は、聞き手を安全な見物人の席に置きません。「これは俺らのメッセージだと思った方がいいよ。」と、自分自身を含めて語ります。

自分にも弱さがあると認めることは、時に怖いものです。これまで守ってきた立場や、人からの見られ方が崩れてしまうように感じるかもしれません。それでも、相手の問題を並べ続ける手を止め、自分はどうだったのかと静まるところから、ジーザスとの交わりを求め直すことができます。

人を裁く言葉に気づいたなら、その言葉を正当化するために聖書を探す前に、今の自分の心を見ていただく。痛みも含めて差し出す。その一歩へと、この場面は私たちを招いています。

動画内で女性とジーザス、石を持つ人々を描いたイメージ映像
人に向けていた問いが、自分自身へ返ってくる。

5.罪を知っている方から、赦しの言葉を聞く

人々が去った後、ジーザスはその女性に語りかけます。アーサー先生が目を留めるのは、女性の尊厳を大切にする、その接し方です。人々の真ん中に置かれた一人に、ジーザスは言われます。

「私もあなたを罪に定めない。」

そして、その言葉には続きがあります。

「行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」

罪を見つめることと、赦しを受け取ること。その両方が、この出会いの中にあります。ジーザスは彼女を罪に定めず、これからの歩みにも目を向けておられます。

アーサー先生は、この赦しを十字架へと結びつけて語ります。罪を負ってくださるジーザスは、愛を言葉にするだけで終わらず、ご自分の命をもって表される方です。女性に向けられた恵みを語るとき、先生は私たち自身の罪も、その十字架の前へと導いていきます。

人に知られたくない思いも、何度も繰り返してしまう弱さも、ジーザスはご存じです。その方から赦しを受け取るために、自分を立派に見せ続ける必要はありません。過ちを認め、助けを求めることができます。心を照らされた後に待っているこの出会いを、アーサー先生は私たちに差し出します。

女性の尊厳と思いやりについて語るアーサー先生
罪だけを見るまなざしから、一人の尊厳を大切にするまなざしへ。

6.自分の力で踏ん張る私たちに、光が示される

この女性の出来事の後に、ジーザスの言葉が続きます。

「私は世の光です。」

アーサー先生は、ヨハネの福音書 8:12を、直前の出来事とつながった言葉として受け止めます。もう罪を犯さないようにと語られた女性の場面から、世の光なる方に従う歩みへ。ここには、自分の力だけで頑張ろうとする私たちへの道案内があります。

二度と同じことをしないと決めても、また強い言葉を口にしてしまう。心をきれいにしようとしても、妬みや不満が顔を出す。先生は、自分の力で頑張っても罪を犯してしまう私たちの姿を語り、ジーザスに従って歩くことへと目を向けます。

メッセージの終わりに求められるのは、ジーザスとの交わりの回復です。御言葉を心に留め、聖霊の導きを求め、この方とともに生きていく。その関係の中で変えられていくことを、先生は祈りへとつないでいます。

今日、隠したくなった思いを一つ、ジーザスに話してみる。自分の言葉で傷つけたことに気づいたら、認めて謝る。そうした小さな場面でも、光の方に顔を向けることができます。弱さが見えるたびに、もう一度心を開く歩みです。

動画内でジーザスと弟子たちが歩く姿を描いたイメージ映像
自分の力だけで踏ん張らず、いのちの光に従う。

7.受け取った恵みを、誰かのそばへ

アーサー先生は、光の中を歩むことを、自分だけの安心で終わらせません。苦しんでいる人に寄り添い、その人がジーザスに出会うことへと、話を進めます。教会の中で語る言葉が、外で出会う人への生き方にも表れているか。受け取った愛は、私たちを身近な人へと向かわせます。

その一方で、先生自身にも、語った後に悔い改める時間があるといいます。人に向けた言葉や、受けを狙ったかもしれない言い方を振り返る。その話の中で、

「俺の言葉は俺に返ってくるんだよ。」

と語ります。

厳しい言葉を語る自分も、光に照らされ、赦しを必要とする一人である。その姿を見せながら、神とともに歩みたいという願いを伝えているのです。

なぜ、ジーザスは宗教家に厳しいのか。その問いは、誰かの信仰を採点する前に、私たちの心へ返ってきます。人を責めることで自分を守っていないか。御言葉を、自分の都合のよいところだけ受け取っていないか。そして、心の弱さが見えたとき、赦してくださるジーザスを迎えられるか。

今日の自分を、取り繕わずに差し出してみませんか。その方に愛されていることを受け取り、今そばにいる人にも心を向けていく。メッセージは、その歩みをともに始める祈りへと、私たちを招いています。

収録:2026年10月18日/成増教会

▶ アーサー先生のメッセージを聴く

目を閉じて祈るアーサー先生
隠したくなる心も、そのまま祈りへ。